カルピスを烏龍茶で割ったような、
カルピスを烏龍茶で割ったような、恋をしました。
……兄上は僕が何を言っているのか分からないと思いますが、僕だって何をされたのか分かりませんでした。頭がどうにかなりそうでした。辛うじて今言えることは、僕はカルピスを飲んでいて、あの人は烏龍茶を飲んでいて。それが気がつけば、僕の口の中で絶妙な比率で混ざってしまった、そういうということなのです。
ああ、今、兄上は受話器を切ろうとしていませんか? 違うのです。違うから電話を切らないで僕の話を聞いて下さい。何が違うのか、今説明しますから。
だから、問題はその……あれです。カルピスと烏龍茶の口内カクテルは、始めにからみつくような甘みがあって、その直後に鼻の奥底から、例えるならば午後三時の午睡からさめた我が家の愛犬ジョンの左耳のような臭気が突き抜けてですね、あまりに絶妙なその落差のためにこみ上げるフィジカルなサムシング――違いますそうじゃない、それは僕の言いたい事ではなくてですね、いや、それも僕は声を大にして言いたいんですが、今はそのエンジョイ&エキサイティングな後味について詳細に説明している場合でなくて。
何が問題かというと、どうやらそれが僕の、僕の「はじめてのちう」、というものらしいという事なんです。きみとちう。
ああ、今兄上は受話器を自宅のフローリングに叩き付けたのですね。聞こえますか聞こえますか、今すんごい衝撃音が僕の右耳を直撃しました。僕の鼓膜がきーんと鳴っているのが聞こえますか? どうか落ち着いて弟の話の続きを聞いて下さい。ああしかし、受話器の向こう、五メートルほど先に兄上の足音が辛うじて聞こえます。随分と荒々しい足音ではありませんか。落ち着いて下さい落ち着いて下さい。部屋の押し入れからバールのようなものを引きずり出す音が聞こえますがとりあえず落ち着いて下さい、そして僕の話を聞いて下さい。僕は今、誰かにこの話を聞いて貰わないと気がどうにかなってしまいそうなのです。
あの、ですね。
僕は今、たった今、頬を赤らめて走り去っていったあの人の事を考えると胸がドキドキして仕方ないのですけれど――これが、恋というものなのですか?
嗚呼兄上、今受話器の向こうでバールのようなものをおおきくふりかぶっていませんか? もしや貴君の双眸からは血のように赤い涙がしたたり落ちていませんか? 弟のくせに兄を差し置いて、とか歯を食いしばっていませんか? 刻の涙を見ていませんか? 違うのです違うのです、後生ですから弟の話を聞いて下さい。
だから僕が今、声を大にして言わなければならないことはですね。その……分からないんです。たった今、頬を赤らめて走り去っていったあの人について何も。
住所、電話番号、メールアドレス、名前、
そして何より、あの人の――。
一昨日の放課後、僕はクラスメイトの仰木さんに呼び出された。私のいとこ妹がアンタに会いたいと言ってるのだけど、彼女はそう不機嫌そうに言った。
少し複雑な気持ちになった。何故なら、僕は仰木さんのことを割と好きだったからだ。まあしかし。「ごめんそれは断って下さい、何故なら僕は君のことを好きだからー」「まあ嬉しいっ私もずっと貴方のことを見ていたのー」と二人して手に手を取り合ってうふふーあははーとか、そんな少女漫画のようなドリームを信じられる程うぶではなく、しかしながら軽いジャブを繰り出しつつ脈あり脈無し隙アリ今夜が山だとか、そういうことを判断できるような人生の機微を経験したこともなく(平たく言えば彼女などできた事もなく!)。その結果、
「ふーんなんだかしらないけどそういう事だったら明日はたまたま暇だし会ってみてもいいよ」という、その時はクールに決めたつもりだったけれど後で考えてみれば布団に頭を突っ込んで大地賛賞を歌いたいような無様な返事を返したのだった。
そして翌日。放射冷却で割と冷え込んだ朝の十時ちょっと前。
待ち合わせ場所で待っていたのは、仰木さんだった。
「へ?」
素っ頓狂な声を上げた僕に、彼女ははにかみながら何か言おうとしたものの、しかしコンコンと咳が出て、「ごめんなさい」割とハスキーな、明らかに仰木さんとは違う声がした。
「私、優香ちゃんのいとこで斉藤って言います。ちょっと風邪引いちゃって、ごめんなさい、声出すのが辛くて」
「ああ、そう」
混乱したままの僕は、優香というのが仰木さんの名前であることを、辛うじて思い出した。
遊園地を目指して歩きながら、声を出すのが辛そうな彼女と僕の会話は体して弾まなかった。とりあえずその数少ない会話を総合すると、斉藤さんは仰木さんの一つ下の従姉妹であり、ちょっと離れた場所にある私立の女子高に通っているらしい。そこは割と有名なお嬢様学校で、一部の男子には絶大な支持を得ているという噂を聞いたことがある。僕をどこで知ったのか、どうして僕に会いたかったのか、とかそういう割と大切な所に関しては、小さく微笑むだけで答えてもらえなかった。
「しかし、斉藤さんって本当に仰木さんに似てるねえ」
入園ゲートの前で並びながら、僕は彼女に話しかけた。彼女は小さくはにかんで何も答えなかったが、どうやらそれは不機嫌とかそういうのでなく、元からそういうおとなしい性格の子らしい。彼女の様子に少し慣れた僕は、徐々に口数が多くなっていった。
「そういやさ、斉藤さんは仰木さんの弟君と同じ年? 彼もやたら仰木さんに似てるよね。学年下だから特に面識ある訳じゃないんだけどさ、一時割と話題になったんだよ。『姉そっくりの弟が入学した』って。確か三年女子を中心にファンクラブまでできたって噂。お父さんかお母さんか、どっちかの血がよほど強いのかな」
彼女は少し顔を赤らめながら、「おかあさん」と口だけ開けてそう答えた。
「ああ、お母さんの血筋なのか。じゃあもしかして、斉藤さんのお母さんと仰木さんのお母さんが姉妹?」
彼女はこくりとうなずく。当たりだったようだ。
「へぇ、そういうのいいなあ。うちのいとこは、ずっと年上か年下で面白くなくてさー」
彼女は首を少し傾げ、見上げるようにして僕の話を聞く。おかっぱ気味の前髪が、首を傾げた拍子にさらりと目の上にかかるのが、僕的にかなりストライクだった。
話すのに夢中になって、列が動き始めたのに気付くのが少し遅れた。後列に強めに押され、彼女は少しつんのめった。
「あっ、」
ハスキーな声と共に、彼女は僕の方によろめいた。とっさに彼女をかばう。僕と彼女の体が密着し、人混みの圧力はさらに強く彼女を僕に押しつけた。何というステキなシチュエーション、なるほどザ・ワールド、時よ止まれ。
そして。至福にくるまれた僕の体に、厚手の冬服を通しても伝わる彼女の柔らかくて暖かいサムシング、
……サムシング!?
あわてて体を離し、真っ赤になってうつむく斉藤さんと一緒にゲートをくぐりながら、僕は先ほどの感触を何度もリピート再生していた。
女の子の体はどこもかしこもマシュマロのように柔らかいのだと、昨晩兄上に借りた青年漫画で予習してきたのだけど……
想像の斜め上を行った今の柔らかいアレは、その、ちょっと、ポジショニング的に……
あれ?
そんな僕の煩悶をよそに、入場を果たした斉藤さんはきょろきょろと辺りを見渡している。心なしか顔が上気しており、足取りも弾んでいるようだ。
横から僕が見ているのも気づかず、斉藤さんは周囲を探し求め、そうして眠そうな犬顔の着ぐるみを見つけると手を合わせたまま小さく飛び跳ねた。
小走りに駆け寄ろうとし、僕の横を通り過ぎかけた斉藤さんは、僕がぼけっと立ちつくしているのを見て小さくその場で足踏みし、僕の手を引こうとして少しためらった。そうして、おそらくは少なからぬ葛藤の末、赤面しながら僕のコートの裾を掴んでくいくいと引っ張った。
顔を赤らめたまま僕を引っ張っていく彼女の横顔を見て、不覚にも僕まで赤面してしまう。
どうしよう。
どうすればよいのでしょう、兄上。
先ほどの疑問も解けぬままに。
今、今、ものすごくこの人が可愛いのです。
でもね、兄上。
今さっき、某悪友からメールが来たんです。
「そうか、ついに願望と現実の境目を超えたか、憐れなる友よ。
彼女のいとこって、俺一人だけなのだが」
そんな混乱の中で幾分愛犬ジョンに似た着ぐるみの過剰な歓待を受けた僕たちは、次なるアトラクションを求めて広い遊園地内を歩き回った。
ジェットコースターでちょっと尻込みする斉藤さん。
コーヒーカップを回しながらはにかむ斉藤さん。
小さな口でクレープを頬張る斉藤さん。
嗚呼、なんかもう、斉藤さん可愛いよ斉藤さん……。
何をびびっているんだ、さっきのは気のせいよそうきっと気のせいでメールは悪友の悪戯そうきっと悪戯、いやいやそんな大事なことを気のせいで片付けていいのか? ここは覚悟を決めて問いたださねばならないのではないか? そんな脳内自問自答を繰り返していると、不意に「こんなに可愛いんだからもうどうでもええぢゃないかええぢゃないか」僕の右でコウモリの羽をつけた兄上が現れて耳元に囁き始めた。ええのんか? 本当にええのんか? 僕はすがるように問いかける。すると今度は左の耳で「いくら可愛いからといってそれはダメよ倫理的にダメよー!」パルックライトを被った兄上が現れてそう囁いた。「迷わず逝けよ、逝けば分かるさ!」僕の頭上で赤いタオルを肩に掛けたしゃくれアゴの兄上が叫ぶ。「ダメ! ゼッタイ!」後ろから僕の肩に手を掛け、某国家の犬マスコットの着ぐるみを被った兄上が笛を吹いている。
幸せ溢れる遊園地の人混みのど真ん中、天と地の間で極みにおちいった僕は、混乱の中で辛うじて、ことだけを認識していた。
つまるところ、今。
僕は人生の岐路に立っている!
人生の岐路で足踏みすること数時間。気がつけば僕たちは日が暮れるまで遊園地を堪能しまくっていた。
煩悶しながらも遊園地はとても楽しく、思いの外童心に返っていた自分はわりと大物なのではないか、とか思う。
「喉、乾かない? 何か買ってこようか?」
日の暮れかけた遊園地で、僕は斉藤さんに聞いた。
「じゃあ、カルピス」
斉藤さん、はしゃぎすぎてさらに声がかすれてしまったらしい。苦笑いしながら、僕は自販機でカルピスと、あと自分用に烏龍茶を買って帰った。
「疲れたね、ちょっと座ろうか」
僕たちはベンチに腰掛けた。ちびちびとジュースをすすりながら、しばらく沈黙が続く。
ここが正念場だと思い、僕は腹をくくった。
「あのね、」
斉藤さんは、コップを口に付けたままこちらを向く。僕は何とか斉藤さんの方に向き直るが、目線だけは合わせられなかった。
「あのね、つかぬことを伺いますが……」
「もしかして、君の名字は、斉藤とは違うんじゃないかな?」
微笑んでいた斉藤さん(?)の顔が少し引きつる。
「そしてもしかして、君は僕より一つ年下、なんじゃないだろうか?」
斉藤さん(?)、さらに顔が引きつる。嗚呼、当たって欲しくない事実ほど真実なのでしょうか神様。
「そして……そして……君は実は、僕と同じ高校で……」
覚悟を決めるため、一度斉藤さん(?)から目線を反らせた。
当たって欲しくないのだが、僕の予想が正しければ。
この人の名字は仰木と言って、一つ上にそっくりな姉がいて、そして……
緊張のあまり、口の中がカラカラになっているのを自覚する。残り少ない烏龍茶で口を湿らせた。空を仰ぎ、目を閉じてしんこきゅぶっ
最後の呼吸が塞がれ、驚きのあまり目を開けた僕の視界いっぱいに、真っ赤な顔の斉藤さん(?)どアップ。
視覚に次いで触覚、そして味覚が覚醒する。
(タン! カルピス味の上タンが! 僕の口腔を! 蹂躙しておるのであります!!)
目を見開き、ベンチから腰を上げることもできず呆然としている僕を見下ろし、斉藤さん(偽名?)は顔を赤らめ、目に少し涙を浮かべてながらも、微笑んでいた。
「……さようなら、センパイ」
かすれるような声でそう呟き、そのまま僕を置いて駆けていった。
夕暮れの遊園地のベンチで一人、取り残された僕は呆然と空を見上げていた。
まぶたには、顔を赤らめたあの人の姿が残されており、
唇には、柔らかいあの人の感触が残されており、
そして口の中には、彼女の舌の柔らかさとカルピスの味が残されている。
何故か、鼻の奥がツーンとした。
手元に残された最後の烏龍茶をあおる。
「うっわ……」
口の中に残されたカルピスと烏龍茶が絶妙にブレンドされ、えもいわれぬ後味が喉を通り抜けていった。
「うっわぁ……」
僕はもう一度呟き、空を見上げながら、今日のこの後味を、まだまだ続くであろう僕の個人史の中にどう位置づけるべきなのか――二時間後、心配した兄上が電話を掛けてきたその時もまだ、そんな事を考えて続けていたのだった。
カルピスを烏龍茶で割ったような、恋をしました。
おしまい(されど僕の人生は続く)