たまにはこんな夜があっても


(たまにはこんな夜があっても、ね)
 自分に言い訳をしながら、河原のあぜ道をゆっくり歩いた。
 満開の桜は、今朝方の大雨でおおかた散ってしまったらしい。足下のぬかるみは薄汚い花弁でまみれている。
 桜の咲く季節を初春と云うのならば、これからが春の盛りなのだろう。薄手のコートでは心許ない今日の夜風も、そのうち生暖かい日だまりの中に消えていくはずだ。こんな夜に似合うのは、ベタだけどやはりホットの缶コーヒーだと思う。右手に一本と、ポケットに忍ばせたもう一本。ちびちびと啜りながら、時々立ち止まっては月を見上げる。
「――♪」
 慣れない口笛で、一昔に流行ったポップソングを奏でながら歩く。こんな日は、思いっきりベタに行くのが良い。どうせもう、今の僕は十分にみっともないのだ。
 口笛が二番に入った頃。
「〜〜♪」
 前方から、か細く口ずさむ鼻歌が聴こえた。声の元を探して首を巡らせ、そうして対岸の土手に佇む女性の影を見つけた。
 その歌が僕の口笛とたまたま一緒の曲だったから、メロディは自然とその歌声に重なった。膝の中に顔を埋めるようにして座った人影が、わずかに揺らぐ。その動作は本当に僅かだったけど、そうして対岸を歩く人影を認めたのだろう。彼女はそのまま、何事もなかったように歌の続きを口ずさんだ。僕は少し躊躇った後、立ち止まって口笛を続けた。
 静寂に満ちた夜川に、手垢の付いたメロディが流れていく。途切れがちで、時折調子の外れる掠れた鼻歌が、僕と同様であろう彼女の境遇を連想させた。目を合わせるのも悪い気がして、僕は月を見上げながら口笛を続ける。視界の端にあって様子は定かでないが、彼女は抱えた膝の隙間から、水面(みなも)に映った月を眺めているのだろうと思った。
 二番が終わり、三番も終わった。
 歌声が途切れると、僅かばかりの川のせせらぎが僕と彼女の間を満たした。月を見上げるのを止めて対岸を伺うと、彼女も膝の間からこちらの様子を伺っているようだった。その様子が何かの小動物を連想させ、僕は小さく笑みを浮かべた。懐に取っておいた缶コーヒーを目の前に掲げ、多少大袈裟に振ってみせる。どうやら意図は通じたらしい。彼女は小さくかぶりをふると、コートのポケットから缶コーヒーを抜き出して見せた。銘柄は僕と同じく、ジョージアのロング缶。解ってるじゃん、と、彼女はそういう表情で笑った。こんな夜に飲むコーヒーは、味よりも甘さと量が重要なのだということを、僕たちは良く知っている。
「〜〜♪」
 しばらく続いていた沈黙は、彼女の鼻歌で破られた。遅れて僕も口笛を併せる。三番の後にサビのリフレインが続くバージョンもあることを、しばらくしてから思い出した。
 小さな夜の川に佇んで、二人してありふれた失恋の唄を口ずさむ。日の光の下では恥ずかしすぎてとても出来ないようなベタで陳腐な一シーンを、僕たちは飽きることなく続けるのだった。同じ唄を口ずさむには十分で、渡って肩を並べるには遠すぎて、そして缶コーヒーを投げて寄こすには微妙な距離を挟んで、見知らぬ僕らが、二人。きっと今、対岸の彼女と僕は同じ事を考えているのだ。
 たまには、こんな夜があっても良いよね。




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