約束


 子供の頃の夢を見た。
 僕は小学生で、当時一番仲の良かった「ターちゃん」という子と小学校の広場で遊んでいた。いつもは、夕暮れの時間までに帰らないと目くじらを立てて怒る両親が、その日だけは夕過ぎまで遊ばせてくれた。明日引越してここを去るから、最後にターちゃんとゆっくり遊んできなさい、という配慮だった。
 空が茜色から紫を通り越し、そろそろ藍色になろうという頃になって、ついに別れの言葉を交わす時間となった。ターちゃんは、「大人になったらまた会おうな!」と幾分ませた口調で言いながら、僕の目を正視せず、額の斜め上に視線を流していた。それは、彼が照れ隠しに使ういつものやり方だった。
 ……そこで目が覚めた。あまりの懐かしさに呆然として、その日一日何も手が付かなくなるような、そんな夢だった。
 普段見る夢は目覚めたとたんに曖昧になっていくのに、その夢だけはいつになっても薄れていくことが無かった。広場のケヤキの隙間から差し込む夕日の赤さ、ターちゃんの少し鼻詰まり気味の声を、僕は鮮明に思い起こすことが出来た。
 その日以来、懐かしさと幾らかの悲しみを抱えて、僕はその夢と、当時の思い出を反芻することが多くなった。
 ターちゃんは、僕が転校して間もなく水難事故で死んでしまったという。当時、僕は数日間泣き伏し、子供心ながら「これから先、僕はもう笑うことはないんだ」などといじましくも考え、しかし数週間後にはふとしたことで笑っている自分に気付いて愕然としてみたりしたものだった。さらに数ヶ月後には今まで通りの生活に戻り、そして数年後には、かつての親友のことを思い出すこともなくなった。実際、最後に彼のことを思い出したのはいつのことだったろう。
 僕の引越した先は、隣の市だった。バスでたった一時間の距離、しかしそれは、あの頃の僕らにとっては国を違えるような遙かな彼方であった。それも当然だろう、小学生にとって、校区こそが認識する世界の全てであったのだから。
 ターちゃんとの交流が途絶えたまま、僕は今もここで暮らしている。そして、少年時代の全世界であった地は、今は廃村となっている。来年、ダムの底に沈むと聞いた。もしかしたら、淡い郷愁が僕にあんな夢を見させたのかもしれない。

 今日もまた、ターちゃんのことを思い出している。夢の内容を反芻することが刺激となるのであろう、僕は、あの頃のことを少しずつ思い出していった。
 当時の僕らは、忍者を主人公としたテレビ番組に夢中だった。そこでは「仲間と交わした約束は必ず守る」というのが一貫したテーマとなっていて、当然のように僕らは感化された。あの頃作り上げた、稚拙な暗号、秘密の隠れ家、仲間と共有した宝物、そして、盟約。そのあまりの陳腐さと真剣さに、可笑しさと恥ずかしさが込み上げてくる。
 確か、僕が引っ越したときもその流行は続いていた。だから、「大人になったらまた会おうな!」っていう約束は、当時の二人にとっては物凄く大切な盟約だったはずである。もしかしたら、ターちゃんは約束を果たせなかったことを悔やみつつ逝ったのかも知れないな。そう考えるのは、悲しくもあったが、また、同時に甘美で心地良い感傷でもあった。
 ……最後に、ターちゃんに会ってこようか。


 久しぶりの休日を、僕は彼との思い出のために費やすことにした。約束を交わした地に赴く事で、約束のせめて一端でも果たせたらと思ったのだ。また、感傷に浸りすぎて気が滅入り気味だったので、何か思い出と訣別するための区切りとなるものが欲しかった、というのも理由の一つだった。
 小学校は確か、僕が去ってまもなく廃校になったはずだ。きっと当時の面影をそのまま残していることだろう。
 車を走らせること一時間。峠を越えると、生後十年足らずを過ごした地が僕を迎えた。記憶の奥底を刺激する廃屋の群れは、否応なく僕の心を当時へと還らせていく。生家の脇に車を止め、当時の歩幅を思い出すように、ゆっくりと学校へ歩み出した。
 かつては冒険の毎日だった通学路は、三十センチ高くなった視界で見下ろせば驚くほど平凡な光景だった。道ばたの地蔵が気味悪く、夕方帰るときは必ず道の逆側を駆け抜けて行ったものだったが、今見るとあまりのたわいの無さに吹き出しそうになる。さて、もう一つ坂を上って降りれば着いたはずだ……
 最後の坂を越えると、一気に視界が開けた。見下ろす百m程先に、当時の佇まいのままで、小学校は在った。目指す足が速くなったのは、決して下り坂のせいだけではなかったろう。
 母校は二十年以上の歳月を経て相応に荒れていたものの、それでも面影を色濃く残していた。当時既に老朽化していたため、齟齬を感じることもなかった。加速の付いた足をなだめつつ、僕はゆっくりと校門を潜った。


 校舎をゆっくりと一回りしながら、また色々な事を思い出した。
 当時、仲間同士で連絡を取るのに、カプセルの中にメッセージを書き込んだ紙を入れて秘密の場所に隠していた。その場所は仲間内の秘密で、仲間以外には絶対明かさない「約束」だった。ところがある日、ターちゃんはうっかりそれを上級生にばらしてしまったのだ。僕は物凄く腹を立て、ターちゃんをなじって、「約束を守らないターちゃんとはもう秘密連絡しない!」と宣言し、カプセルを川に放り捨てたのだった。確か、引っ越す少し前の事だ。
 今思えば、仕方のない事だったのだと思う。僕らが絶対秘密と確信していたその場所は、校舎裏の森を三十メートルも入っていかなかったはずだ。悪戯心を出した上級生に見つからないはずもない、その証拠にほら、僕の曖昧な記憶を頼りにしてすら目印が見つけられる。
 目印を辿り、覚えのあるケヤキの木に辿り着いた。根本に浅く埋めたタイル板があって、その下のブリキ箱がカプセルの隠し場所だったはずだ。振り返ると、ここから校舎がはっきりと見て取れた。あの上級生はきっと、あの窓から僕らの行為をニヤニヤと眺めていたのだろう。僕はかぶりを振って、校舎に背を向けた。まったく、あの頃の僕らは何だったんだろうね、ターちゃん。
 いじけた子供のように、爪先で根本の土を削った。しばらするとタイル板が見えてくる。しゃがみ込んでタイルの端に指を掛けると、それはあっさりと捲れ上がり……タイルを持ち上げた姿勢のまま、僕は目を見開いた。凝視する先には、箱に収められた、半分赤・半分青のカプセル。僕が投げ捨てたはずの物、ここに在るはずの無い物だ。震える手でタイルをはね除け、カプセルを拾い上げる。カプセルに描かれた稚拙なエンブレムは、確かに当時僕が描いたものだった。
 カプセルを左右に振ると、カサカサと音がした。中に紙が入っている。相変わらず震える手をもどかしく思いつつ、カプセルを開けた。
 中には四つ折りにされた紙が入っており、小学生の字で、こう書いてあった。
 「やくそくやぶって ごめん」

 当時の僕等にとって、「約束」とはそれ程までに真摯で神聖な盟約だったのだろう、大人になった僕にはもう解らないほどに。校舎のどこからか、ターちゃんが悲しそうにこちらを見ているような気がしてならなかった。
 (……ごめんね、もうおこってないから……)
 それだけを心の中で繰り返しつつ、暫くぶりに流す涙が、カサカサの紙に染み込んでいった。






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