三月五日のオモイ


「なんだかなぁ……」
 頬杖付いてそう呟きながら、今日、何度この言葉を呟いたんだろうと思った。
 制作途上の文章が進まなくなってから、もうどれだけ時間が経ったろう。進んだものといえば、時計の針とフリーセルの連勝記録、くらいなものである。
 ちらと時計に目をやる。そのまま、日付も進みそうだった。
 三月五日。
 書きかけの小説にとって、そして僕自身にとって、少し特別な意味を持った日。
 極めて個人的なその記念日は、下らない感慨と共に始まろうとしていた。
「なんだかなぁ……」
 もう一度、その非生産的な言葉を吐き出した。こういう時煙草でも吸えれば良いのかねぇ、そんなことを考えてみたりもする。
 何かが上手くいっていない、何かが空回りしている、何かが欠けている、何か大切なことを忘れている気がする……そういった類の穏やかな焦燥が、この言葉を呟かせるのだろう。
 そういえば、こういうのを比喩する慣用句があったよな。確か、「真綿で首を絞められるような」だっけ。
 ところで、本当に真綿で首を絞められたことのある人って、歴史上何人くらいいたんだろうね? 感想を聞かれたら、やはり首を撫でながら「いやぁ、真綿で首を絞められるような気分でした」とか答えたんだろうか……ん? そういや何を考えてたんだっけ……ああそうそう、何だかなぁ、ってことについてだった。そうだそうだ。
 そうして思考は振り出しに戻る。非生産的なことこの上なし、世はなべて事も無し。
 溜息を吐きながら、飲み残しのコーヒーに口を付けた。
「まず」
 すっかり冷えきった液体には、嫌な苦みしか残っていなかった。
 不味いと解っているのについ手を伸ばし、そしてあまりの不味さに後悔する。気が滅入っている時は、何ということもない習慣にすら悪態を吐きたくなるものらしい。あーあ、何だかなぁ。
「いやいや、それこそが平穏な日常、ってもんさ」
 そんな無理やりな言葉で、エンドレスな思考に一息付けた。そうなんだろうなぁ、とか自分の台詞に相槌を打ってみたりする。椅子の上で大きく伸びをした。
 随分前から、僕は一つの小説を書き上げてみようと、実らない試みを繰り返している。二行進めては三行戻し、丸一日根を詰めては一ヶ月投げ出し、読み返しては溜息と共に削除し……その結果が今、ディスプレイの上で無惨な姿を晒している半端な言葉の断片達、というわけだ。
「あーくそ、どうにも上手く行かないな」
 フリーセルもろともにパソコンを閉じて、天井を見上げた。
 始まりは一年前の三月五日。
高校時代のとあるエピソードを元にして、ちょっとした小説を書いてみようか。ふとしたその思いつきは、思いついた次の瞬間から急激に膨れあがって僕をパソコンの前に駆り立てた。
 けれども、文章ってのは読むと書くとでは大違いで、試行錯誤を繰り返しても一向に思うような形にならず、積み上がったのは空回りと溜息の数だけだった。
 何とかして形にしたいという強い衝動と、どうしても形にできない焦燥が、間欠泉のように断続的に吹き出しては僕を苛み続けている。いい加減、楽になりたいと思ってはいるのだけれど。
「良い言葉ってのはさ、窓から入ってくる通いネコみたいなもんだねぇ」
 この一年を総括すると、こんな言葉になるかと思う。他のことに夢中になっている時には背中にピッタリ寄り添って来るくせに、正面から対峙しようとするとスルスルと身をかわして逃げていってしまう。
「だよなぁ、おい」
 椅子の背もたれに思いきり体をあずけ、首を後ろに傾けて声をかけた。
「一週間ぶり?」
 「ナァ〜」と鷹揚に返事したのは、毛艶の良い三毛ネコである。近所の飼いネコなんだろう、首輪もあるし食べ物に飢えたそぶりも見せない。
 彼女(三毛ネコだから多分メス)はこの部屋を縄張りの一部と認識しているらしく、定期的にここを訪れては一時間ほど毛繕いなどして帰っていく。彼女にとって部屋主は都合の良い遊び相手らしく、機嫌の良いときはやたら絡んでくるくせに、構ってやろうとするとよく分らない理由でそっぽを向くのだった。
 彼女は一言だけの挨拶を終え、「もはや君に興味はない」とばかりに毛繕いに熱中し始めた。こうなるともう、触らぬネコにたたり無しだ。
 油の切れた背もたれをキイキイいわせながら、僕は視線を天井に戻した。視界の端に彼女を留めておくのはまぁ、心変わりを期待する一抹の未練というか。
「あーあ、今日も空しい一日でしたよ」
 独り言のふりをして彼女に声を掛ける。
 彼女は右前足を丹念に舐めている。
「なーんかさー、色々ままならないよねぇ」
 左前足は適当に。
「嘆いてどうなるもんでもないんだけど、さ」
 今度は、右後足で右耳の後ろをバリバリと。
「あーあ、まったく、ねぇ」
 一通りの手入れを終え、彼女は物憂げにこちらを見つめている。僕はそれを半眼で見つめ返す。
 数分の沈黙の後、彼女は「さもあきれた」といった仕草で一声鳴いた。
「だらけすぎ」
「……は?」
 予想外の人語に驚いた僕は後方に向かい思い切り体を捻り――勢いが良すぎたと後悔したのは、背中と後頭部がしたたかに打ち付けられた後だった。着地点がコタツ布団の上だったことは、不幸中の幸いだ。
 ひき殺されたカエルのような、情けない格好のままコタツを見上げた。その先に、半眼で見下ろす彼女の姿があった。
「ちょっと私、幻滅したかも」
 鎮座するネコの口から聞こえたのは、懐かしい人の声だった。

 

 二つ並べた湯飲みに、沸かしたばかりの緑茶を注いだ。コタツの上に行儀良く座ったまま、彼女はそれを訝しげに眺めている。
「これは私の分ってこと?」
「あ、いや、その。 ……ネコ舌だっけ?」
 すごいジト目でこっちを見ている。
「それってジョーク?」
 これが意図的な発言だったらなかなか洒落の効いたセリフだったんだろうが――残念ながらマジボケである。
「まぁその、なんだ。お客さん前にして一人で茶を飲むってのもあれだろ? とりあえず形だけでも、さ」
「まぁ、いいけどね」
 ネコの姿で溜息をつかれてしまった。
 やけどしそうなほど熱い緑茶をチビチビとすする。とりあえず、このお茶を飲み終えるまでに考えをまとめなければ。斜め上に目を泳がせ、視線を左右に振りながら一生懸命考えた。
「ふふふ、時間稼ぎする時のクセは相変わらずね」
 ネコの表情は笑わない。でも、その後ろにネコ目を細めて笑う彼女の姿が見えたような気がした。
「うん、相変わらずみたいだねウメ君は」
 そのあだ名で呼ばれては疑うべくもない、か。
 深呼吸を一つ。
「久しぶり、佐倉さん」
 彼女の目が、すぅ、と細くなった。


  ◇


 佐倉の目が、すぅ、と細くなった。斜め前からこちらの机を覗き込み、これ見よがしに自分の答案を指し示す。
(んーふふ、今度は私の勝ちね、ウメ君)
 授業中なので声には出さない。それでも、口の動きと、何より表情が雄弁にそれを語っていた。
(はいはい、佐倉さんの勝ちにしとくよ)
 こちらも、これ見よがしに肩をすくめてみせた。(不甲斐ないぞ梅本ー)とか(よっしゃいただき!)などとざわめいている連中は無視する。
 彼女はフフンと鼻を鳴らしてみせ、授業の方に注意を戻した。そろそろ、答案の返却が終わりそうだ。
 佐倉香織は、どの教科もそつなくこなす成績優秀者だった。中でも最も成績が良いのが物理で、それなりの進学校である我が校内で常に五位以内に位置していた。
 物理学そのものが好きな上、成績優秀者のプライドもあったのだろう。年度初めの模試で自分の一つ上に名を載せた、大して親しくもなかったはずのクラスメイトに向かって、彼女はこう言ってのけたのだった。
「これは、私に対する挑戦と認識していいのかしら、ウメモトハルキ君?」
 その後、戦績は三勝一敗一分。今回、二度目の黒星を喫する結果となった。余談だが、彼女の単勝馬券は二・五倍くらいで、総合成績ではてんで勝負にならないので賭けにもなっていない(残念ながら、僕が優勢なのではない)。
 頬杖を付いて、ぼんやりと前を眺めた。
 斜め前方の彼女が視界に入るのはもちろん、不可抗力の成り行きというものであったし、黒板の文字が目に入らないのは単に授業が退屈なだけで、視界の辺縁部を意識するためでもない。
 肩胛骨辺りまで伸びた彼女の黒髪が、うなじの所で緩く束ねられていた。開け放しの窓から吹き込む初夏の風に、艶のある黒髪が踊っている。
 色白といって良い肌にじんわりと汗が浮かんでいた。風が強く吹くたびに後れ毛が頬にまとわりつき、それを鬱陶しそうにペンの頭で掻き上げるたび、切れ長の目と長い睫毛が姿を現した。
 ところで、今回のテストは随分平均点が悪かったらしい。粘着質な所があって生徒にうけの悪い菅原教諭は、いつも以上に機嫌が悪かった。妙に難易度の高い問題を黒板に書き出し、片っ端から生徒を当てては回答に詰まった連中を罵倒している。席順からして、そろそろこちらに回ってくるだろう。
 奇形的に物理にだけ特化した僕の思考回路を通して見ても、それは穿ち過ぎな問題だと思えた。こういう問題を解くのに必要なのは、知識の集積よりもむしろ、裏技的な小細工のセンスだ。こういう問題を解いて褒められるのは実際のところ、「よしよし、おまえは小狡い奴だな」と賞賛されるようなもの――と、これはとある勝ち気なライバルからの受け売りなのだが。
 そんなことを考えながら、気が付けば被害は三つ前の生徒に及んでいた。
 一応、解法に当たりは付けていた。あとは黒板上で考えれば多分解けるだろう、がしかし。それを引き合いにして、他の生徒がさらに貶されるというのはどうにも後味が悪い。解けないふりをして罵倒に甘んじるのが、無難な一生徒の無難な対応というものであった。
 直前の生徒が絞られている。いよいよ僕の番かと溜息をついた時、すっと佐倉の手が挙がった。
予想外の展開だったのだろう。教諭は一瞬怯んだ表情を見せ、直後にそれを取り繕うように、ことさら不機嫌な表情を作って見せた。
「よし、佐倉解いてみろ」
 無言で席を立ち、黒板に向かって回答を書き付ける。白けた空気が漂う教室の中、カリカリと音だけが反響した。
 僕は頬杖を付きながら彼女を見ていた。背の低い彼女はつま先立ちで黒板に立ち向かっているのだが、伸び上がった体がすとんと落ちるたびにスカートの端がわずかに持ち上がり、白いふくらはぎが顕わになるのがちょっと気になった。
 几帳面な字で黒板の三分の一を埋め尽くして、彼女は教諭の方に向き直った。幾分不満気に頷く教諭は、もう少し生徒をいびりたかったのだろう。
「正解だ。皆も佐倉を見習え、そもそもお前等は――」
「ありがとうございます」
 続く説教を強引に遮り、『ニッコリ』と、それこそ擬音が付きそうな程の満面で彼女は微笑んで見せた。演劇部部長を勤める彼女の堂々たる動作に、根は小心な中年教師は完全に出鼻をくじかれた体である。
 彼女はそのまま身を翻し――教諭に見えない位置で中指を立てながらニヤリと笑んでみせた。それを受け、すれ違う席の生徒はこっそりと親指を立てて彼女を称える。
 悪意と高揚感に満ちたその表情はもちろん、かわいいという表現からはほど遠かったが――それでも、先の人形のような笑みより随分彼女に似合っていると思った。
 席に着いた彼女は、ちらりと後ろを振り返り、こちらに向かってもう一度笑ってみせた。
(貸し、イチだからね!) どうやら色々、彼女にはお見通しということだったらしい。思わず苦笑が漏れる。
 不承不承といった仕草と共に親指を立てて見せながら、不甲斐ないライバルはそんな彼女に惚れていたのだった。
 ――そして、今でも。


  ◇


「どう、錯乱から立ち直った?」
 湯飲みから立ち上る湯気にヒゲをくゆらせる行為が、ことのほか気に入ったらしい。彼女は、未練がましく時間稼ぎを図る僕の様を上機嫌で眺めていた。チビチビと啜っていたお茶は半分以上残されているものの、すっかりぬるま湯と化している。
 湯飲みを卓上に置き、両手を上げて見せた。そのリアクションは返答として適切ではない気もしたが、彼女はそれに満足したようだ。
「さて、私がここに来た理由だけど。何だと思う?」
 首を少しかしげながら、彼女は尋ねた。
「うーん、あまり良くない内容のような気がするな」
 精一杯眉をしかめて答えた。彼女が予想の付かない言動に出た時、決まってろくな目に遭ってない。少なくとも、僕はそう記憶している。
 そんな表情を、彼女は面白そうに眺めていた。
「あはは、警戒されてるねぇ私」
「そりゃそうだろ、五年間音信不通だった友人がネコの姿で尋ねてくるなんて、どこのマンガだよ」
「ていうか、どこのラブコメよねぇ」
「なっ……」
「ほらー、だってネコ耳よネコ耳! 夜が明けたら私、耳だけこのままで元の姿に戻っちゃうかもよ?」
「誰が信じるか、そんなお約束」
 右手の甲で軽く突っ込みを入れる。
 キャ、とか大げさな声を上げて、彼女はコタツの上で転がってみせた。そのまましなやかに身をよじらせ、悩ましいポーズでこちらを見上げる。う、と言葉に詰まった。潤んだ目で見つめられ、不覚にも赤面してしまう。
おいおいちょっと待て、ネコの艶姿に動揺するとはどう了見だ自分!
「ねぇ……後でパジャマ、貸してね。このままだと私、ハシタナイ姿になっちゃう」
「だぁぁっ」
 それが止めの一撃だった。とっさに両手を振り上げ、目の前に繰り広げられたイロイロナモノを打ち消した。
「あー、今すっごくハヅカシイこと妄想したでしょうハヅカシイこと!」
 してやったり、といわんばかりの声で彼女はこちらに詰め寄った。
 頭を抱えてコタツに突っ伏す。
「うぅー」
「あはは、やっぱウメ君からかうのは面白いわー」
 満足げな声と共に、ポンと頭をはたかれた。
 ――やっぱり、ろくな目に遭わない。
「で、何?」
「ん?」
「だから、本題はなんなんだ、って」
 精一杯の気力で彼女を睨み付けた。これ以上彼女のペースに巻き込まれてはまずい。
「んふふ、ちょっとからかい足りないけどまあよしとしますか」
 ネコ目を細めて、クスクス笑っている。
「じゃ、一通り笑ったんで本題に戻るんだけどさ」
 彼女の尻尾が、くい、と上を向いた。
「私はね、ウメ君の〈オモイ〉のために来たの」
「……は?」
 頭をあげて、彼女を見る。僕の顔がよほど間が抜けていたのだろう、彼女はヒゲを震わせながら笑った。
「あはは、これじゃあなんのことかわかんないか」


 ◇


「あはは、これじゃあなんのことかわかんないか」
 そう言いって、彼女は笑った。
「うーん、申し訳ないが、ピンとこない」
 腕組みをしながら、僕は机の上の台本を睨んでいた。
 台本のタイトルは「あなたと私のオモイ」。彼女は、隣の椅子からこちらをじっと見つめている。
「つまり、『想い』と『重い』を掛けたわけ」
 彼女はこちらに身を乗り出し、台本の余白に二つの同音異義語を書き並べた。自然、至近距離から彼女の後頭部を見下ろす体勢となる。
 束ねた髪が右に流れ、二十センチ前のうなじが夕日に赤く照らされた。僕は慌てて目を逸らした。
(うわ……)
 放課後の教室。
 窓から射し込む夕日と、遠くから聞こえる部活の喧噪。
 片思いの女の子と、二人。
 なんというか、それはあまりに――
「……ベタだなぁ」
「む、ベタで悪い?」
 身を乗り出した姿勢のままで頬杖を付き、彼女はこちらを睨んだ。
「テーマはベタでいいの。だからこそ、演出が際立つんじゃない」
「あ、いや。こっちの話」
「もう、ちゃんと読んでくれてる?」
 至近距離のままで、眉をひそめられた。こういう表情もいいなぁ、などとどうしようもないことを考えたりする。
「再来週までに脚本仕上げないと、文化祭に間に合わないんだから。部外者に見てもらっておいてこういう言い方するのも何なんだけどさ、真面目に読んでよ?」
 思いっきり後方に仰け反り、組んでいた腕を『降参』のポーズにした。
「ちゃんと読んでますとも。つまり、死別した人への想いが重すぎて、前に進めない人達の心を癒して回るんだよな、佐倉さん演ずる主人公が」
「『癒す』って言葉はイヤだな。私、そういう意味で書いたんじゃない」
 彼女の眉間が、これでもかといわんばかりにひそめられた。どうやら、思いっきり不本意だったらしい。
「前に進むのは、あくまで本人の意志なの。主人公は、動きたいのに動けなくなっている人達の前に現れて、尋ねるだけ。『あなたの〈オモイ〉はなに?』って」
「気付いて、それからどうするかは本人次第ってわけか。ふむ、確かにそうなってるね」
 慌てて台本をめくり直しながら、そうフォローする。
「そう。大きすぎる〈オモイ〉なら、背負って歩ける形に切り取ってしまえばいい。切り取り方が分らないから、主人公がそれを示してみせるの」
 彼女は立ち上がって、ゆっくり窓の方へ歩いていった。流れ来る秋風を受け、気持ちよさそうに目を細める。
「大切な想いと一緒に歩めるなら、たとえゆっくりとでも、動けないより何倍も素敵な事だと思う。もちろん、思いっきり身軽になれるよう小さく切り取ってしまっても良いしね」
「なるほどね。 ……うん、まぁそこまでは共感できる」
 手にした台本をぽん、と机の上に放り投げ、思いっきり背もたれに体重を預けた。
「ん? 異論がおありのようねウメ君は」
 彼女は窓枠に体重を預け、くるりと振り返った。
「いや、異論っていう程のものじゃないけどさ」
 机の上に右手を乗せ、人差し指で表面をコツコツと叩いた。
「最後の登場人物は、〈オモイ〉を丸まま切り捨てちゃうんだよな? なんつうかさ、そういうの容赦ないなぁっていうか、」
 それがいかにも佐倉だなぁ、っていうか。
 彼女はニヤリと笑ってみせた。
「まぁね。優柔不断のウメ君には納得いかない?」
「優柔不断は認めますよ。 ……けどさ、動けなくなるほど大切な想いを、所詮は通りすがりの誰かさんに指摘されただけで丸投げできるもんか?」
 人差し指一本で叩いていたのが、中指との二本になった。コツコツの間隔が短くなる。
「たった一言で丸投げしてしまうってのはさ、それは抱えてた想いがその程度でしかないってことなんじゃないか?」
 自分でも不思議なほど、苛立っていた。
「そう、その程度だったのよ」
 微笑みながら彼女が頷く。
「……っ」
 会話が噛み合っていないような気がした。もしくは、何か決定的なところで自分が否定されているような。
「僕だったらさ、」
 そのことが悔しく、次の言葉を紡ぎ出す。せわしないリズムを刻んでいた右手が、ガリッと机を引っ掻いた。
「最後にもう一人、出すな。そいつは、切り取り方を教えられた上で、切り取らない。改めて、進むことを放棄する。
 ……それも一つの選択、だろ?」
 何故か、彼女の顔を正視できなかった。
「そっか。うん、そういうのってウメ君らしいよね」
 それは、これまで聞いたどの声よりも優しく――そして、冷たい声だった。
「でもね、私はそれを認めない」
 沈黙が教室を満たす。運動場の方から小さく、「ファイト、オー」なんて呑気な掛け声が聞こえた。
(気楽に言ってくれるよ……)
 真っ赤に染まった教室の中、逆光となって彼女の表情はうかがい知れなかった。


 ◇


「……という事なの。納得した?」
 彼女は自慢げにヒゲをひくつかせた。
「いや、申し訳ないが、さっぱりだ」
 僕は両手を後ろにつき、体を後ろに仰け反らせた。だってそうだろう? あれは佐倉の作り事じゃないか。
「嘘から出た真っていうのかしらねぇ、それとも、事実は小説より奇なり?」
「気楽に言ってくれるよ。まぁ、実際目の前にいるものを否定しても仕方ないけどさ。
 どっちかっていうと、俺が狂ってる可能性の方がまだ有り得るかと思う」
 そんなことを冷静に話す自分はとっくに狂っているのではないかと、半ば本気で思う。
「当たり前に自分を疑ってかかる辺り、いかにもウメ君よねぇ。うん、私、君のそういうとこ好きだな」
 一瞬ギクリとする。やれやれ、動揺するのはそっちの方ですか? 僕は天井を見つめながら溜息をついた。自分の事ながら、ずれているのか単純なのかよく解らないね。
「ていうかさ、そんなオカルトが平々凡々な一青年の身に降りかかる理由が解かんないんだよ。うちは幽霊なんかには無縁の家系だしね」
「うん、まぁウメ君ならそう思うよね」
 彼女は、首を傾けてクスリと笑った。
「先に結論から言っちゃうとね、こういうのって、割と普通にあることみたいよ」
「んな馬鹿な。これがありふれた出来事っていうんなら、世間は怪談で溢れてる」
「うーん、じゃあ切り口を変えてみせましょうか。
 主人公のこんなセリフ……憶えてる?」
 彼女は崩した姿勢を直して、こちらに向き直った。キリ――と空気が冷えたような感覚が伝わってくる。
「『伝えたかった想いを伝えられないまま、聞きたかった言葉を聞けないまま生きていくってことの後悔に……人は人のままで、本当に耐えていけるのかな?』」
 真っ直ぐな瞳が僕を見つめる。ずくん、と胸の奥が疼いた。
 血管という血管が鉛で満たされる感覚。
 想いを残した、その本人に問われて。
「『時間と共に傷は癒える? 本当に?』」
 やり過ごしてきたはずの感情に、身が責められた。
「ウメ君は、私に似たところのある君なら、感じたことがあるはずよ。
 『後悔にゆっくりと押しつぶされていく息苦しさ。肺の中に水が注ぎ込まれていって、満たされきった時に自分は死ぬんだろうな、そういう確信』」
 真剣な瞳が、一瞬悲しみで曇った。
「わかるでしょ? これは誇張でも比喩でもないの。本当に言葉通りの意味で……
 『人は、オモイに溺れてしまう』」
 その言葉は、錐のように古傷をえぐった。
「だから、人にはこういう幻想が必要なの。
 私は、ウメ君の〈オモイ〉を連れてくために、ここに来たのよ」
 その言葉は即座に肯定できるほど安易ではなく、かといって即座に否定するには切実すぎた。
 しばらくの間、言葉もなく互いを見つめ合う。
「憶えてるかな? あの日の――放課後の教室での会話。私は、あの時思いっきり君を否定してしまったけれど、」
 悲しそうに目を伏せる。
「本当は、そう言ってくれることが嬉しかったの。ああウメ君は解ってくれる人なんだなぁって。
 でもね、あの時の私って、既に〈オモイ〉が飽和しかけてたんだ。仲違いしてた祖母が、仲直りする前に亡くなっちゃったのね。でも、ホントに大好きな祖母だったの。些細な勘違いが原因だったの。
 だから、私の心の弱いところを代弁した君を否定しないと、それも思いっきり酷薄に否定しないと、自分が溺れてしまう――ダメになってしまうんだと思ってた。
 ……あの後ね、お婆ちゃん、来てくれたの。頭を撫でて、『莫迦だねぇ、そんなこと気にして無いのに』って笑ってくれた。私もうボロボロ泣いて、泣いて……それで、救われた」
 張りつめた空気を溶かすような、優しい眼差しに変わった。
「でもね、このことはすっかり忘れてたのよ。当時憶えてたのは、『ある朝起きたら、綺麗さっぱり心が軽くなってた』っていう感覚だけ。自分が溺れかけてたことも、その一歩手前で戻ってきたことも、なんにも憶えてなかったの」
「……」
「信じて、くれないかな?」
「……」
「………」
「いや、信じるよ」
 辛うじて、それだけ答えた。
「うん、ありがと」
 彼女は穏やかに微笑んでくれた。

 

「一休憩、入れようか」
「うん、私もそうしたいとこなんだけど、残念ながらあんまり時間が無いみたい」
 苦笑と共に、時計が指し示された。
「うわ、もうこんな時間?」
 気付けば、あと一時間もすれば夜が明けようかという時間だった。
「こういうもののお約束なんだけど、夜明けがタイムリミットみたいなのね。
だから、さっさと本題に入っちゃいましょう!」
 彼女は、両手をパンと打ち合わせた(ネコの姿で)。
 ……こんな時に何なんだけど、今すごく珍しいもの見たな。
「とりあえず、あの時私がウメ君に辛く当たったのは、そういう経緯があったからなの。君を否定したわけでも、侮辱したわけでもなくて、単なる八つ当たり。だから、気に病む必要は無いんだからね?」
「ああ……、了解した。うん、そっか」
「あれ? 不正解?」
 気の抜けた返事が意外だったのだろう。彼女はきょとんとこちらを見ている。
「いや、まぁ……それもあると言えばあったんだけど」
「だってあの時、ウメ君すごく辛そうだったし、あの後、私ずっと避けられてたでしょ。
 あの後、私わりと後悔したのよ。私と似たところのあるウメ君が、同類と思ってる相手にあんな酷薄なこと言われて、どれだけイヤな思いを引きずったろうって」
「いや、その気持ちはありがたいんだけども」
 確かに、あの件は随分こたえた。しばらく彼女と顔を合わせたくなかったのは事実だ。
 でも、それは彼女の思っているような理由ではなかった。そもそも、彼女を同類だと思ったことなど一度も無い。
 単に、前向きで強い彼女に劣等感を覚えたからだ。
 そして、そういう彼女に尚更憧れて、それ以上言動を偽る自信が無くなったからだ。
「うん、その件については僕も未熟だったと思う。むしろこちらが謝らないといけなかったな、すまない」
 ぺこり、と頭を下げた。
「わわっ、それってアベコベじゃない! いいんだって、私が悪かったんだから」
「そう言って貰えると、助かる」
 あまりこだわってみせるのもかえって気を遣わせるだろう。そう思ってあっさり頭を上げた。
 確かに、これじゃ立場があべこべだな。
「プッ、律儀なところも相変わらずねぇ、ウメ君」
 彼女はそう言って笑い――はて、と首を傾げた。
「あら? じゃあ、ウメ君の〈オモイ〉ってなんなの?」
 きょとん、とこちらを見つめる。
「あ……」
 しばし呆然となった。何か無難な回答はないかと、頭を回転させる。
「あの件じゃなかったら、何か私、他にも酷いこと言ったかな。ゴメンね、私、考えなしにまくし立てることあるから」
「あ、いや、佐倉さんは悪くないって! これに関してはその、僕の方が一方的に悪いっていうか」
 しょげ込む彼女に、慌てて弁明する。
「そうなの?」
 再びきょとんとする彼女に、必死で頷いてみせる。
「そうそう、佐倉さんは悪くない」
「そっか……」
 パチパチと数回瞬きした。少しの間うつむいて、再びこちらに顔を向け――
「じゃあ、ウメ君が私に悪いことしたんだ」
 彼女の目が、すぅ、と細くなった。
「あ……」
 やばい。
 誤解を解いた後は当然、核心の追求に移る。そのことに思い至らなかった僕は、正真正銘の間抜けだ。
「ではでは、心おきなく容赦なく追求させてもらいましょう!」
 彼女は高らかに宣言した。
「あ、いや、ちょっとタンマ」
「問答無用!」
 ドスッ
「うわっ!」
 動揺の収まる間も無いままに、第二撃がみぞおちを襲った。胸板の上に飛び乗った彼女の一撃に、僕はあっさり押し倒された。
 ちょっと待て、立ち直るの早すぎますって!
 その姿勢のまま、超至近距離で顔を覗き込まれる。その瞳は驚くほど記憶の中の彼女に似ていて、僕は思いっきり赤面した。
「さぁ白状しなさいウメ君! 『あなたの〈オモイ〉はなに?』」
「う……」
 唾をごくりと飲み込む。
「ちょっと待って。何の事やら僕には」
「へぇ、この後に及んでシラを切ろうってんだ? じゃあもう少し苛めちゃおっかなぁ」
 彼女が視界から離れ――
「分った! まいった止めて降参カンベン!」
 僕は瞬時に屈服した。それ以上、一瞬たりとも彼女の攻撃に耐える自信が無かったからだ。
 ――耳たぶ甘噛み ボイス付き――
 なんという破壊力。
 へなへなと崩れ落ちた。
「んふふ、早く言わないともう一回噛むよ?」
「わかった、白状する、白状するから……その前に、一つ質問させてくれ」
 完膚無きまでにKOされた上半身を気迫だけで持ち上げ、彼女をコタツの上に押し戻した。
 深呼吸を一つして、覚悟を決める。
「ちょうど五年前の今日……つまり、卒業式の時のことなんだけどさ。
 あの時、もしかして……その、起きてた、かな?」
 覚悟を決めた割には、情けない声だった。
 彼女の目がキョトンと見開かれ――
 そして数秒の後、再び細くなった。
「んふふ、君の思い残しはソレだったか。なぁるほど。じゃあお答えしましょう。
 ――ホント、中途半端なことしてくれたわよ、ねぇ?」
 やばい、ビンゴだ。
 全身がボッと熱くなった。


 ◇


 やばい、ビンゴだ。
 全身がボッと熱くなった。
 僕は廊下の扉に手を掛けた姿勢で硬直した。日はとうに落ちており、電灯すら灯っていない廊下は寂寥感に満ちている。
 結局、文化祭から今に至るまで、彼女とはギクシャクしたままだった。それはもっぱら自業自得な自分の気後れのためだったから、せめて最後に彼女と普通に話したいと思ったし、むしろ今こそ決断の時と思い詰めてもいた。
 だが、「優柔不断」と評された僕はやはりどうしようもなく意気地なしで、明日こそは、明日こそはと思い決めて――とうとう、明日は無いという今日に辿り着いてしまったわけだ。
 そして、今。
 捜して回って、すれ違って躊躇って、結局捕まえられずに校舎を後にして。
 自宅で一人煩悶し、夕暮れて日が落ちて、結局諦めきれず、もしやと一縷の望みを託して向かった先に――
 その先に、彼女がいた。
 蒼暗い教室の奥、机の上で寝息を立てる女の子が、一人。こちらからでは顔は見えなかったが、艶のある黒髪を見間違えるはずはない。
 卒業式そっちのけで演劇部の引き継ぎに奔走していた彼女のことだ、休む間もなく動き回って、そしてここで力尽きたのだろう。
 ちなみに、文化祭で上演された彼女の演劇は好評を博し、その四ヶ月後、高校演劇のコンクールで優秀賞を受賞するに至った。脚本・演出と共に主役も務めた彼女は、受験生にも関わらず頑なにその役を譲らず、その結果、コンクールが終了した一週間前まで現役だったという次第だ。
「佐……」
 名前を呼ぼうとして、息が止まった。
 数秒の逡巡の後、僕はゆっくりと彼女の方に歩み寄った。
 音を立てないように気を遣い、彼女の前の席に腰を下ろした。
『……スウ……スウ……』
 彼女は、頬杖を付いた姿勢のまま眠っていた。
 音一つ無い教室に、彼女の寝息だけが響いている。それは、ひどく罪悪感と幸福感をかき立てる光景だった。
 印象的な釣り気味の目が閉じられていると、普段より随分あどけない顔になるんだなと思った。黒髪と長い睫毛が、窓から射し込む月明かりを反射している。黒いブレザーが光を吸収し、色白の肌だけがボウと浮かび上がっているようだった。
 寝顔を眺めながら、何度も深呼吸した。
 自問/自答、決断/逡巡、楽観/悲観――そして、希望/絶望。今日一日、嫌というほど振れ続けた感情の起伏が、今ピークを迎えている。
 覚悟を決めるために、もう一度深呼吸。
「そろそろ起きない? 佐倉さん」
 その声が震えないように、拳をぐっと固めた。次に続ける言葉を、僕はどのくらい前から準備していたのだったか。
『……スウ……スウ……』
「……」
『……スウ……スウ……』
「………」
『……スウ……スウ……』
「…………あの、佐倉さん?」
 遠慮がちに、彼女の肩を叩いてみる。
「こんなとこで寝てると風邪ひくよ?」
 少し強めに肩を揺する。
『……スウ……スウ……』
 余程疲れているのか、まるで目覚める気配を見せなかった。
「おいおい。予想外もいいとこだよ」
 思わず発したその声と共に、溜め込んだ気合いが一気に萎びたのを感じた。
「なんだかなぁ……」
 がっくりと肩を落としてそう呟く。僕の覚悟を返せ! と泣きたい気分だった。
 そのまま、窓の外を呆然と見上げた。
 見飽きたはずの風景も、シチュエーションさえ良ければそれなりに様になるもんだな。放心しながらも、そんなことを考えた。
 気合いと共に、どうやら気負いも抜けてしまったらしい。先よりも随分穏やかな気分で、改めて彼女の寝顔を眺められた。
 好きだなぁ、とか改めて思った。
「なんていうか、最後まで佐倉さんのペースだよね」
 小声で呟いた。聞こえるなら聞こえろ、という気分だった。
『……スウ……スウ……』
「まぁ、そうやって振り回されるの、結構楽しくてさ」
『……スウ……スウ……』
「しがない青少年としては、やっぱ意識しちゃうんですよ」
『……スウ……スウ……』
「でもって、そういうのは必死で隠す訳でさ」
『……スウ……スウ……』
「この一年間で、随分演技が上手くなったような気がする……って演劇部長さんに言えた言葉じゃないけどね」
『……スウ……スウ……』
「まぁ、このまま卒業するのもちょっと……いや、すごく心残りでさ。最後にけじめを付けたいなって、そんな風に思う次第」
 饒舌な自分に少し驚く。(なんだ、結構頑張ってるじゃん)そんなことを思って、ちょっと笑った。
『……スウ……スウ……』
「……  ……  ……」
 いつの間にか、僕の呼吸は彼女のそれと重なっていた。
 手を伸ばし、彼女の手にそっと重ねた。掌を通して伝わる体温に、落ち着いたはずの鼓動が再び跳ね上がった。
「佐倉さん……」
 目を閉じたままの彼女の顔を、じっと見つめた。
 理性は最後の一言を紡ごうとしているのに、熱にうかされるような衝動はそれを省みなかった。
 彼女の顔が、視界一杯に広がっていく。
 蒼白く照らされた頬。
 艶やかな睫毛。
 そして、モノトーンの景色の中で唯一の暖色――唇。
 心臓は物凄い勢いで鳴り響いているのに、脳髄は氷柱のように冷え切っていた。
 ゆっくり目を閉じ、刹那、息を止める。そうして、触れ合う一瞬の感覚を心に留めた。
 深く息を吐き、彼女が目を開けるのを待った。
 彼女が、ゆっくり目を覚ました。しばらく呆然とし、その後目をしばたかせ、びっくりしたようにこちらを見つめる。
「……ウメ君?」
 彼女を見つめ、そして、最後の一言を口にしようとして――
 喉が、張り付いたように固まった。
「――――」
「……どうしたの?」
「いや、あの、」
 出すべき台詞が、出てこない。
 この期に及んでの失態に、全身の血の気が引いた。
「――――」
 音を発しない口が情けなく開閉する。
 彼女の驚いた顔が、怪訝な表情に替わっていった。
「ウメ君? ってなによこれ、真っ暗じゃない!?」
「……ああ、よく寝てたね」
 ようやく口をついて出てきたのは、そんな下らない一言だった。決定的な一瞬が手の平からすり抜けていったことを自覚し、呆然となった。
「わわっ、なに私こんな時間まで寝てたわけ?」
 彼女は勢い良く立ち上がり、跳ね飛ばされた椅子が後ろの机に激突した。ガラガラガシャンと、特大の騒音が鳴り響く。
『おいっ、誰だ!』
 上の階から、見回りの教師であろう声が聞こえた。
「やばっ、逃げるよウメ君!」
 彼女に急かされ、僕は呆然としたまま校舎を抜け出した。

 

 ――それが、彼女に関する最後の記憶だった。
 そして、そのちょうど二年後。風の噂で、彼女の訃報を聞くことになる。理由は不明だ。
 取り返しのつかない後悔というものがある。
 そのことを思い知らされた、今日はそんな記念日でもあるのだった。


  ◇


「……というわけでっ!」
 正座に座り直して、彼女に向かう。
「中途半端なことしてすまんかった!」
 伝統的かつ最大級の謝罪方法、土下座で彼女に詫びた。
「そっか、それがウメ君の心残りだったわけか」
「……」
「なんていうか、決断力が中途半端だよね、ウメ君って」
 彼女はうんうんと頷く。
「まったくもって、返す言葉もなく」
「うーん、青春よねぇ」
 しばらく、彼女のクスクス笑う声だけが響いた。全身から冷や汗が流れていくのを感じる。
「なるほどなるほど、よーく分りました。 ……それで?」
「――?」
 思わず顔を上げる。
「あ、」
「それで、私に謝って……思い残しは晴れたの?」
 目を見張った。
 五年前より髪が短くなり、少し細身になり、記憶の中の姿より幾分大人びて見えた。それでも、艶のある黒髪と白い肌と長い睫毛と――そしてなにより、切れ長の眼差しを見間違えるはずもない。
 そう。僕に向かって微笑む彼女は、佐倉香織の姿を取り戻していた。
 彼女は、楽しそうに、しかし柔らかい眼差しでこちらを見つめていた。
「もう一度聞くわよ、ウメ君。
 『あなたの〈オモイ〉はなに?』」
「――」
 今度は一瞬で赤面した。明日あたり、血管が筋肉痛を訴えるんじゃないだろうか。
「……ふう」
 目を強く閉じ、俯いて思い切り深呼吸した。両の手の平で軽く頬を叩き、五年間放り出したままだった覚悟を固め直した。
「じゃあ、聞いてくれるかな、佐倉さん」
 下げた頭を起こし、真っ直ぐに彼女を見つめた。
 目の前に、五年前の風景が甦った。
 夜の教室。
 窓から射し込む月明かりと、完全な静寂。
 想い人と、二人。
「あの時から……今も、ずっと。
 ずっと、あなたのことを想っています」
 月明かりの中で、彼女が微笑んでいる。白い肌に、うっすら朱が挿している。
「ありがと、ウメ君。私も……私も、君のこと好きだったよ」
 胸の中を、とん、と何かの落ちる感触があった。不覚にもこぼれ落ちて来そうな涙を、ぐっと堪える。
「……ありがとう」
「うん」
「……」
「……」
 月明かりが、五年遅れの二人を祝福した。

 

「……あはは、やっぱこういうのは照れるわー」
 そんな軽口と共に彼女は顔を背け、窓の方に歩いていった。一方こちらは、その後ろ姿を見やる余裕すら無い。へたり込むように椅子に座り込んだ。
 そこでようやく、自分の周りに起こった変化に戸惑う余裕が生まれた。
「ここって、やっぱあの時の教室、だよな」
「そう、懐かしいね。そこがウメ君の席で、ここが、私の席」
 彼女は慈しむように自分の机を撫でさすった。
「ここが、君の原風景なんだね」
「……ん。今でも、たまに夢に見る」
 夢と自覚しながら観ていた夢を思い出す。
 春の日向のように煙った、もしくは、冬の月光のように冴え渡った教室の中。
誰にも気付かれることはないと知っていたから、頬杖をつきながら誰はばかることなく彼女の後ろ姿を眺めていた。振り返られることがないと知りながら――あるいはそう知っていたからこそ――飽きることなく、眺め続けていた。
「ここでノートを取ってるとね、斜め後ろからチラチラこっちを伺う視線が分かるのよ」
 机に視線を落とした姿勢のまま、彼女はクスクスと笑った。
「えーっと……バレバレだった……ってことですか……?」
「男の子ってそういうの分かりやすいなぁ、っていつも可笑しかった」
「うわっちゃぁ……」
 今さら恥も外聞もないとはいえ、それは結構ショッキングだ。右手で顔を押さえ、思い切り後ろに仰け反った。
「この際だから聞くけどさ。俺が意識しているの分かってて、それで、佐倉さんはどう思ってたわけ?」
「好きだったよ、友達以上にね。けど、告白されるのはまずいなぁ、とも思ってた」
「え?」
「私、ずっと付き合ってた人いたからさ」
 衝撃的な返答に、仰け反った体がバランスを失いかけた。ガタン、と大きな音を立てて後ろの机に手をついた。
「そ、それは――」
「もちろん、学校では内緒にしてたの。その辺、女の子は抜かりないのよ、ウメ君?」
 教壇に歩いていった彼女は、一段上のその位置からこちらを見下ろしてくすりと笑ってみせた。
「告白してくれたからには、私も正直に答えるね。あの時の私は、君の好意に気付いてたし、私も君を好きだった。特別な存在だったと言っても良い。男の子の中で彼氏の次に、っていう条件付きで、ね。告白されたらきっぱり君を振るつもりでいたわ」
 そこで、彼女の表情がふっと軟らかくなった。教卓に頬杖をついて、こちらを見つめる。
「でもね、ウメ君といる時間はとても好きだった。私が普段思ってる色んなこと、形に出来なくてもどかしくて仕方ない、漠然とした思いに共感してくれて、それを一緒に考えて言葉にしてくれるのが君だったから。だから、このままの関係を望んでいたの。身勝手を承知の上でね。
 ……君が優柔不断なのはよく分かってたからさ、この距離を保てば、告白なんかされずに心地よい関係を維持できるって思ってたわけ。
どう、幻滅した?」
 そう言って笑う表情は、あくまで軟らかい。
 予想外の告白に、収まりかけていた頭がグラグラを再開した。
 沈黙が流れる。彼女は、返す言葉を待っているようだった。
「まぁ……世の中ままならない、ってとこか」
 混乱を極めた感情を押さえつけると、苦笑の形になった。
 それを受けて、彼女の視線が鋭くなる。
「駄目よウメ君、そんな無理矢理な言葉で納得しないで」
 真剣な表情で、教壇を降りてこちらに歩み寄ってきた。
「正直、今でも想ってくれている君の気持ちは嬉しい。でもね、もう私はそれに決着を付けてあげられない。手遅れなのよ」
 その言葉は、無理矢理押さえつけた感情をいとも簡単に突き破る。
「もう一度繰り返すけど、私はウメ君の<オモイ>のために来たの。
 私の言いたいこと、もう解るわよね。つまり――」
 そこで彼女は一度言葉を句切った。
「――君は、私への<オモイ>に溺れかかっている。
 そして、あの日の告白を果たしてもまだ、君の<オモイ>は取り払われていない」
 それは、否定できない重みで胸に突き刺さった。
 夢と自覚しながら観ていた夢を思い出す。
 春の日差しの中、そして、冬の月光の下。振り返ることのないうなじを眺め続けていたその夢は、確かに。
 ――そう、それは確かに、どうしようもなく幸福な幻想だったのだ。
 この幻想が終わることなく続いて欲しい、そう心の底から願ってしまったのだ。
「これはささやかな自慢なんだけどね、私は人を見る目には自信があるの。好き嫌いの感情を脇に置いて、その人を評価できていると思う。けど、ウメ君は違うよね」
「……」
「好意で人を過大評価するのが君の性格よ、良くも悪くもね。断言してもいいけど、ウメ君の中の佐倉香織像には、世界中のどの女性も太刀打ちできないわよ、だって君がそう創り上げてしまっているんだから」
「………」
「唯一、ウメ君の幻想を壊せる私は、もうこの世界にいないの。そして、君はこの世界で生きているの。ここに留まっている以上、君は私以外の誰かを幸せにして、私以外の誰かと幸せにならなきゃならない」
 彼女は、真っ直ぐにこちらを見つめる。
「……なぜ?」
 精一杯の気力を振り絞って、そう問うた。
「なぜ、それを君に指図されなきゃいけない?」
「決まってるじゃない、私が悔しいからよ」
 彼女は決然と、そう言ってのけた。
「私はね、悔しいの。やりたいことが一杯あった。大学の演劇はすごく面白かったし、友達ともっと遊びたかったし、読みたい本も観たい映画も山積みだった。そして、いつか大人になった君と再会して、あの頃私も好きだったんだよって伝えたかった。
 でも、もうそれも叶わない。まぁ、それは仕方ないわよ、死んじゃったものはどうしようもない。
 ……けど、何!? 望めば幸せになれる人が、<オモイ>なんか引きずって全部台無しにしようとしてるのよ? それがよりによって、私を好きになってくれて、私が好きだった人だなんて……そんなの、悔しいに決まってるじゃない!」
 不謹慎かもしれないが、目を奪われた。目に涙を浮かべながら、それでも昂然と胸を反らして宣言する彼女の姿を――それを、とても美しいと思った。
 ああ、思い出した。
 これが、佐倉香織だ。
 そして僕は、そんな彼女に惹かれたのだった。
 ゆっくりとではあるが、胸のわだかまりがほどけていく感触を得た。
「んだかなぁ……」
 自然と漏れたのは、そんな言葉。浮かんだ苦笑は、今度こそ自然なものであったと信じられる。
「なによぉ」
 鼻声になりながら、彼女はこちらを睨み付けた。
「いやいや、やっぱ佐倉さんには敵わないなぁ、と思ってさ」
 苦笑混じりに、彼女の頭をポンポンと撫でてやる。
「私は全部打ち明けたんだからね、今更はぐらかそうったってそうはいかないんだからね!」
「了解したよ、佐倉さん。こんな言い方しかできないけど、まぁ、なんとかやってみるさ。
 ……でもね、」
 そう区切って、彼女の目を覗き込んだ。
「最後に一つ、愚痴りたいことがある。
本当のことを言うとさ、君が悔しがることを承知の上で、僕は<オモイ>を全て抱えてここに留まりたい、そう思ってる」
 そう言って真っ直ぐに彼女を見つめる。彼女の表情が困惑から怒りに変わる直前に、続く台詞を口にした。
「それも一つの選択、だろ?」
 今度は目を逸らさない。
 これはせめてもの悪戯だ。佐倉があの日の会話を憶えてくれているなら……
 彼女はしばらく目を瞬かせた後、
「そっか……うん、そういうのってウメ君らしいよね」
 それは、これまで聞いたどの声よりも優しく――そして、暖かい声だった。
「でもね、私はそれを認めない」
 僕を見上げる涙混じりの表情が、微笑んだ。
「気楽に言ってくれるよ」
 肩をすくめて苦笑いする。
 二人の忍び笑いが、夜明け近い教室を満たしていった。

 

 気付けば、教室の窓から薄い青色が差し込んできている。
「もう少し話がしたかったけれど。残念ね、もう時間みたい」
 彼女は、首を少し傾け、悲しそうに微笑んだ。セミロングの髪が流れ、頬にはらりと降りかかる。
「そろそろ、行くね」
「……」
「じゃあね、ウメ君。 ……元気でね」
 そう言って扉に手をかけた彼女は、少し逡巡した後、こちらを振り返った。
「最後に、もう一つだけ打ち明けるね。
 彼とは、高三の冬に別れたの。するとね、おかしいのよ。ウメ君が一番にランクアップしてた。我ながら浅ましいわよね。でも、それに気付いた時には君の方から距離を取られていた。あの時はさすがの私も自己嫌悪だったわ。
 卒業式の夜は最後の賭けだった。君が来てくれたなら、その時は全て打ち明けよう、って。
 ……あはは、自分で台無しにしちゃ世話無いわよね」
 そう言って儚く笑う彼女の手を、咄嗟に扉から奪い返した。
「あ……」
 そのまま、思い切り引き寄せる。背の低い彼女の頭をおとがいで押さえつけ、破裂しそうな衝動を押さえ付けるように、小さな体を抱きしめた。
 瞬間こわばった彼女の体から、徐々に力が抜けていくのを感じた。包容と言うにはあまりに身勝手で不器用なそれを、彼女は拒まずに受け入れてくれた。
 彼女の手がおずおずと背中に回り、ゆっくりと抱きしめ返してくれる。
「……っ!」
 両腕越しに伝わる手応えから、彼女の密度が徐々に薄れていくのを感じた。怯えと共に、一際強く彼女を抱きしめた。
 胸元に、彼女の吐息を感じた。
「……ねぇ、最後に名前で呼んで良い?」
 彼女は、囁くような声でそう問いかけた。
「ああ」
「春樹君……」
 彼女の手が一度ほどかれ、胸の前からスルリとはい上がり、首の後ろで結ばれた。押さえられていた頭をかわし、つま先立って伸び上がる。
 その姿勢のまま、しばらく見つめ合った。
 彼女の顔が、視界一杯に広がっていく。
 月明かりの中、朱色に染まった頬。
 艶やかに潤んだ睫毛。
 ――そして、想い人の名を呼ぶ、唇。
 体は冷たく冷えているのに、脳髄は焼き切れそうだった。
 ゆっくり目を閉じ、刹那、息を止める。そうして、触れ合う永遠の感覚を心に留めた。
 そのまま、彼女は次第にその密度を薄くしていき――
「バイバイ、頑張って」
 その声と共に、完全に消え去った。

 

 窓際の席に一人腰を下ろし、朝靄に曇った窓越しに蒼い月を眺めた。
 時間の感覚が麻痺しているようで、彼女との別れが数分前だったのか、それとも数時間経ったのか、よく分らない。
 月光は、こぼれ落ちそうな寂寥感を癒してはくれなかった。それでも、確かに二人を祝福してくれたことを憶えている。
 この幻想は、いつまで続くのだろうか。
 再び現実の中で目覚めたとき、どれだけ彼女への想いを憶えているだろうか。
 五年越しの想いは、幻想の中で成就された。その滑稽さは、自分に似合っていると思った。
「なんだかなぁ……」
 もう一度、口を苦笑に形作る。口慣れた一言は、少し気を軽くさせた。
 僕は今、あの日教室に置き忘れたままでいた物理のノートを開け、その余白に彼女への<オモイ>を一つずつ書き込んでいる。
 そうやって<オモイ>を、一つ一つ思い出へと昇華させていく。今にして思えば、一年前から僕を駆り立て続けていたあの衝動は、そうやって<オモイ>と決別しようという無意識の決意だったのだと思う。そしてそれは、「あなたと私のオモイ」を書き上げた彼女のそれと同じ種類のものであったはずだ。
 なるほど、「私と似たところのある」というのはこういうことだったのか。どうやら、最後まで僕は彼女に敵わなかったらしい。
「なんだかなぁ……はは、なんだかなぁ……」
 その一言一言と共に、ぽろぽろと彼女への想いもこぼれていく。そして、その想いを一つ一つ拾い上げ、ノートに書き込んでいく。
 ノートが全て埋まったら、この教室から出て行こう。そうして今度こそ、あの日の物語を書き上げよう。
 最後のページを埋め終えた。
 ノートを閉じ、表紙を表にして、標題を書き添えた。

 『三月五日のオモイ』

 稚拙な僕の物語は、彼女の演劇のように多くの人を感動させることは出来ないかもしれない。それでももしかしたら、僕以外の誰か一人でも、<オモイ>を救う手助けになるかもしれない。
 不甲斐ない僕は、幻想の中でしか彼女と幸せを分かち合うことができなかった。
 だからこそ、と思う。幻想の中でなく、現実の世界で。
 誰かを幸せにできる自分になりたいと、そう願った。





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