坂上からの景色


「暑ち……」
 何度目になったのかもう思い出せないほど繰り返した呟きがこぼれた。
 暦は三月の半ば。初春の盛りである。
 並木の桜が蕾を膨らませ、花壇で花が妍を競う今日この頃、何を思って俺はこんな緑一色の坂道を登っているのか……。だらだらと続く坂道に半ば以上立ち漕ぎの姿勢を保ち続けたまま、孝は額の汗を拭った。中途半端にロード仕様なレンタル自転車は、久しぶりのサイクリングをちっとも快適にはしてくれない。むしろ、想像以上に衰えた自分の筋肉と心肺機能を見せつけられるようで、不快感がこみ上げる。
(まったく、莫迦なことやってるよな俺……)
 ぼやきながらも、自転車は緩慢に進んで行く。
「法ー、法華経」
 とぼけた声で、鶯が鳴く。


*****


「法ー、法華経……法ー、法華経……法ー、」
 向かいのデスクから鳴り響く、驚異的に間の抜けた電子音の元を叩き切った。勢い余って、雑然とした机上の書類が幾つか滑り落ちそうになった。
 年度末業務で慌ただしい職場の空気が、一瞬どうしようもなく白ける。その空気が殺気と変化しない内に音源を叩ききるのが、部下たる孝に課せられた使命の一つであった。
「武田主任……このアラームいいかげん止めましょうよ」
 書類片手に鼻歌交じりで戻ってくる、上司にして置き時計の所有者たる人物に哀願した。
「やだよ、昼休み前にウグイス嬢の声を聞かないとさ、『さぁ昼ごはんだー』って感じしないじゃん」
 そう言って、武田は笑ってみせた。上司ではあるが、三つしか年が離れていないのと武田自身の性格とが、言葉遣いを随分砕けたものにしている。
「そもそも、ウグイス嬢は哺乳類ですからこんな声で鳴きません」
 とぼけた返事にピントのずれた突っ込みを返した。武田のこういった言動を、傍から笑って眺めることでストレスを緩和させている人間が意外に多いのだと、以前聞いたことがある。狙ってやっているのなら、武田はなかなか気配りの効いた人物と言えるのかもしれない――毎度毎度ダシにされる孝はたまったものではないが。
「ま、それはおいといて」
 武田は椅子に腰を下ろし、隣の席に座るよう孝を促した。口調の微妙な変化を察し、少し背筋を伸ばす。
「再来週に辞令下るってさ、四月から転勤確定ね」
「――はい。で、勤務地はどこに?」
「愛媛営業所。おー、海外勤務だねぇ」
「……まぁ確かに海の向こうではありますけども」
 奇しくもそこは、孝が幼少期を過ごした土地であった。まさかそれを考慮に入れられたわけでもなかろうが、わずかなりとも地元の言葉を憶えているのは助けになるかもしれない。
「太田がここに来て、もう三年だもんね。新天地で力を試して良い頃じゃないかな」
 うんうんと頷きながら、武田は言った。
 新人は三〜五年の本社勤務の後に地方の営業所に異動するのが社の基本パターンだったから、そろそろだろうと覚悟はしていた。が、本音を言えば、せめてあと一年待って欲しい。今の孝には、東京を離れることに色々心残りもあるのだった。
「というわけで、早いとこ引き継ぎを済ませときなよ……あと、」
 そこで言葉を句切り、意味ありげな笑みを見せた。
「身辺整理もキッチリ、ね」
「え、あ……」
 思わず赤面し返事が裏返った。デスクの向こうから、聞き耳を立てていた同僚達の忍び笑いが聞こえる。
「な……なに言ってるんすか!」
 思い切り狼狽えてしまった孝の背を、武田は思いっきりどやした。
「ほれほれ、もっとシャッキリする! 一通りの仕事を憶えたと思ったから太田を外に出すんだから!」
 同僚達は既に、無遠慮な笑を隠そうともしていない。(お前ら忙しいんだろ、仕事しろよ……)と心の中でぼやいた。
「太田は普段飄々としてるくせに、ここ一番で臆病風に吹かれる質だねぇ。もっと自信を持たないと、物事は良いように進まないよー」
 それは、職場の上司というより卒業生を激励する教師のような言い分だった。あるいは、できの悪い後輩を叱咤する先輩のような。自分は割と良い上司に巡り会えてたのかな、そう思うと、不覚にもこの太平楽な上司に感謝の念を抱きそうになる。
「ああ、そうだ。それとね……」
 そんな部下の思いも露知らず、武田は書類に目を落としながら思い出したように呟いた。
「先方が、赴任前に幾つか引き継ぎの打ち合わせをしたいんだって。明後日からちょいと出張してくるよーに」
「あ、あさってすか!?」
 年度末のこの時期に、「ちょっと外回りしてこい」と言わんばかりの口調で無理難題を押しつける暴虐に対し、思わず両手を机の上に叩き付けた――その振動は、絶妙なバランスを保っていた武田の机上に雪崩を生じさせるのに十分だった。
 崩落した書類に埋もれ、図らずも再起動する置き時計。再び鳴り響くウグイス嬢の呑気な鳴き声に、慌てて書類の山を書き分けた。
「法ー、法華経……法ー、法華経……法ー、法華経……」
(……くたばれ、この極楽鳥!)
 孝の声にならない叫びが、オフィスから天に向かって木霊した。


*****


「……くたばれ、この極楽鳥!」
 孝の叫び声が、峠から天に向かって木霊した。とばっちりを受けた鶯はいい迷惑だろう……まぁ、人の言うことなど聞いちゃいまいが。
 次の曲がり角あたりではなかったかと、そう期待しながらペダルを漕いでは裏切られる事を繰り返して、はや十八回。延々続く坂道というものがいかに心身を痛めつけるかということを、久しぶりに痛感した。こうなると、本来爽やかな印象をもたらすはずの新緑さえ自分を馬鹿にしているような気がしてくるから不思議なものである。
 そうして繰り返すこと十九回目。脳天気に鳴き続ける鶯をライフルで撃ち落として、踏ん縛って、羽という羽をむしり取って、……と物騒な妄想を展開している最中、
(……着いた……)
 大きくうねった曲がり角に隠れるようにして、それは在った。
 小さく開いた入口は垂れ下がったツタに囲まれ、ほとんど山肌と同化している。軽自動車二台もすれ違えそうにない幅の穴は、古びたコンクリートに支えられて、辛うじてその存在を主張しているように見えた。自動車を運転しながらでは、ここを見つけるのは困難だったろう。息を切らせながらでも、自転車を選んだことは正解だったようだ。
 自転車を止めて、その穴に近づく。
「八部坂隧道(ずいどう)、ていうのか……」
 錆びたプレートは、こうして余程に近寄って見ないと文字の判別がつかない。
 これまでにこの峠を越えていった数多くの人々のうち、このトンネルの名を知る者が――車で一時間を要する峠道の半ばで立ち止まり、わざわざプレートの文字を確認した者が――果たして何人いただろうか。
 しかも、先方との打ち合わせが一日早く終わったことで得られた、貴重な休日の費やし方がこれだった。今更ながら、自分の行動に呆れる。
 肩をすくませながら、トンネルの中を覗き込んだ。
(……うわ……)
 中で湾曲しているのであろうか、先に光は見えない。それでも奥まで壁面の灰色が見て取れることから、そう長い道でもないのだろうと推測した。
 ここが孝の目的地であった。 ――正確にいうなら、この先に彼の目的があるのかもしれなかった。
 おそるおそる、といった風でさらにもう一歩を踏み入れる。日差しの届かない其処は、久しぶりの運動で熱を持った孝の体から急激に熱を奪った。
 かつんと鳴った彼の足音が、奇妙な具合に反響する。
「ひゃっ!」
 天井から滴る水滴が襟元に落ち、思わず情けない悲鳴を上げた。その声がまた、狭いトンネル内をうわんうわんと反響した。
 たまらずに後ろに飛び退いた。入り口から二歩、三歩、さらに離れる。口の中がカラカラに乾いていることに、今更のように気付いた。
(情けね……)
 雲一つない青空を見上げて、溜め息をついた。今更何に怯えているんだろう。暗闇が怖いのか? ――いや、それだけじゃないな。怖いのはきっと――
 その場にぺたりと腰を下ろした。自分の臆病さ加減に笑いが漏れる。
(ああ、いい天気だな……)
 そのまま寝転がって、さやさやと揺れる青葉越しに青空を眺めた。ようやく汗の引いた体に、新緑をすり抜けて届く三月の風が心地良い。

 
 目を閉じた孝の横を、古びたバスが追い越していった。
 ディーゼル音と震動が、まどろむ孝を包み込んでいく。


*****


 古びたバスのディーゼル音と震動に揺られ、いつの間にか眠っていたらしい。孝は頬杖をついて、夢見心地のまま車窓の外を眺めていた。
 窓に映った自分の姿は、頬杖をついた少年のものだ。バスはガタンゴトンと振動しつつ、ゆっくりと坂道を登っていった。


 孝が初めてこのトンネルを意識したのは、十歳の時だったと記憶している。
 この峠は、孝の実家のある街と、祖父の家のある山間の小さな村とを結んでいた。共働きで孝にかまう時間のとれない両親は、連休には彼を祖父の元へ送るのが恒例であった。
 だから、バスに揺られて眺める峠の光景は、孝にとって日常と言って良いほど見慣れたものだったが――そんな孝でさえ、そのトンネルを明瞭に認識したのはその時が初めてだったのである。
 トンネルは、大きくうねる曲路の切れ目に位置していた。そのため、前もってそこに注意を向けていないと目にも付かない。
 佇む人影――初めに孝の目に留まったのは、トンネルでなくその男であった。
 年は三十代前半くらいであろうか。白いポロシャツに灰色の綿パンというラフな格好のくせに、足下だけが本格的な登山靴だった。髪や髭は綺麗に整えられていたものの、がっしりした体型と肩から垂らした白いタオルが、彼の姿をやや野暮ったいものにしていた。
 ハッとした。男は――随分日焼けしており、服装はらしからぬくたびれたものだったが――孝の父によく似ていたからだ。
 男は青空を見上げ(そういえば、その日も雲一つ無い晴天であった)満足気に笑っていた。そして、後ろを振り返り、木陰に向かって手を差し伸べた。そして、そこから差し出し返された白い手を見つけてようやく、孝はそこがトンネルであることに気付いたのである。
 手を引かれて日向に現れたのは、男と同じくらいの年齢の女性だった。
 大きな麦わら帽子には、青いリボンがくくられている。白っぽいワンピースに白いスニーカーというその出で立ちからは、男とは対照的にたおやかな印象を受けた。
 麦わら帽子を持ち上げて笑った女性の顔は――驚いたことにと言うべきか矢張りと言うべきか――母に似ていた。より正確に言うなら、昔の母親の表情によく似ていた。二人は互いの手を引き、穏やかな微笑みを交わした。
 ――そこでバスは、二人の前を通り過ぎた。
 孝は窓を開け、身を乗り出して、後方に去っていく光景を凝視し続けた。二人が曲がり角の向こうに消え去り、隣席の老婆に窘められてもなお、彼はその行為を中断できなかった。


 家庭内不和を理由に両親が離婚したのは、その一週間後のことである。
 母親に引き取られた孝は、彼女の実家である名古屋に引っ越した。したがって、彼がそのトンネルを目にしたのは、その時が最初であり、また最後のことであった。


*****


(ああ、寝てたのか俺……)
 孝はゆっくり目を開いた。目元を人差し指で拭い、大げさに欠伸をしてみせる。条件反射と言っても良い一連の動作を完了した後で、そこが職場でも寝室でも無いことに気付いた。
 目の前に広がるのは、透き通る青と緑。耳の届くのは、風にざわめく葉鳴り。そして鼻腔をくすぐるのは新緑の香り――を打ち消す汗の臭い。
 どうやら、少し休憩するだけのはずが本格的に寝入っていたらしい。思わず苦笑いが漏れる。
 何度も夢の中で蘇るその風景は、今では孝にとって最も貴重なものの一つとなっていた。夢の中で何度も繰り返されるうちにイメージだけが膨れあがり、今となっては、どこまでが本物の記憶で、どこからが孝の願望が創り上げた虚構なのか、判別つかない程である。
 おそらく、あの日一組の夫婦がいたことは事実だろう。そして、彼らが両親に似て見えたのは、多分自分が創り上げた幻想なのであろう。この地で過ごした最後の数年間、孝が望んでついに得ることのできなかった風景を、見知らぬ夫婦に投影していたのだと思う。
 その上で、今も疑問に思う点が一つ残されていた。
(二人にあれほど穏やかな笑みをもたらせたものは何だったのだろう?)
 あの夫婦は、通り過ぎるバスを止めようとはしなかった。近辺には車を止めるようなスペースは無く、夫婦は恐らく、徒歩で村か街のどちらかに帰っていったのだろう。距離的には村の方が近いが、それでも数時間を要する道のりだ。
 その長い道程を残した上で、連れ添う二人に微笑を交わし合わせるだけの何かがそこに在った、孝はそう信じている――というよりむしろ、そう信じたいのであろう。
 「ここ一番で臆病風に吹かれる質」、主任の評価は言い得て妙だと、孝自身そう思う。確かに今、自分は臆病風に吹かれているのだろう。自身の力で解決したいとは思うのだが――情けないことに、何かのきっかけを自分は必要としているらしい。
 だから、この幻想の正体を突き止めたい、突き止められなくても「単なる幻想だった」という確信が欲しいと思った。それが、自分を一歩前に踏み出させるという、奇妙な確信があったのだ。
 上体を引き起こし、勢いよく両手を叩き合わせた。
 パチン――
  パチン――
   パチン――
 間の抜けた音が、山間に木霊する。
「……さて、行きますか」
 自転車を押しながら、ゆっくりとトンネルの入り口をくぐった。


 トンネルの中は随分と肌寒かった。長いトンネルの割に明かりは灯っていない。暗がりに慣れ始めた目で天上を見上げると、沈黙したままの電灯が判別できた。どうやら、電気が止められてるらしい。
 懐中電灯を持ってくれば良かった、と少し後悔した。電灯の代わりになるかと、リュックから携帯電話を取り出す。頼りなくはあるが、手元を照らす人工の明かりは僅かなりとも不安を紛らわせてくれる。
 液晶画面を眺めて首を傾げた。この山間のトンネル内にもかかわらず、アンテナが三本。(近くに中継点でもあるのかな?)意味もなく辺りを伺ってみたものの、もちろん手がかりは得られなかった。
 携帯電話の薄明かりを頼りにして、トンネルを進んだ。コンクリートがひび割れているのだろうか、水の滴る音が複数の場所から聞こえてきた。自転車のタイヤが小石を噛むたび、ザリ、という音が幾重にも反響する。空気は澱んでおり、動かない水の発するすえた臭いが鼻を突いた。(まるで廃墟だな……)孝は、肩をすくませながら歩みを進めた。
 暫く進むと、トンネルは緩やかに湾曲し始めた。ふと不安になり、後ろを振り返った。既に入り口は曲路の向こうに隠れ、壁面の淡い灰色以外に光は届かない。どのくらい歩き続けていたのだろう……暗く閉じられた空間の影響だろうか、突如として時間感覚が覚つかなくなった。
(あれ……)
 足下がゆらゆら揺れているような錯覚に襲われた。咄嗟に壁に手をつけて体を支える。
 暗闇の中で戸惑う感覚は、先の夢の目覚めとよく似ていると思った。


*****


(またこの夢か……)
 覚醒すると同時に、寝間着の袖を瞼に押し当てた。暫くそのままで息を整える。
 寝間着が十分に水分を吸ったことを確認して、隣の様子を伺った。昨晩遅くまで起きていた恋人は、熟睡しており幸いにも目覚めた様子はなかった。
「ふぅ……」
 天井を眺める姿勢のまま、大きく深呼吸した。


 あの日瞼に焼き付いた風景は、最近、頻繁に夢に現れては孝を困惑させ続けていた。
 孝はいつものように自問する。自分は、こんな夢に涙するほど不幸な少年だったろうか? 自答は否である。
 離婚という出来事はもちろん、多感な少年の身に少なからぬ影響をもたらしたろう。しかしそれは、決して決定的なものではなかったはずだ。むしろ、笑うことの多くなった母や受話器越しの優しい父の声、そして名古屋での新しい生活に、孝はそれまでより満たされていたと思う。
 孝は、父も母も責められないと結論していた。当時、二人とも当人無しには動かない大きな仕事を任されたばかりで、互いを振り返る余裕が持てなかったのだ。きっと自分の家庭は特別脆いなものではなくて――ただ単にタイミングが悪かったのだと、素直にそう思う。
 だから、この夢を「家族に対する憧憬」と解釈することには無理があると思った。無意識下の希求、とかいった曖昧模糊としたものはあるのかもしれない。しかし、それよりも説得力のある解釈が一つある。最近までこの夢を忘れていたことは、それ以外に説明の付けようが無かったからだ。
(あれほど幸せそうに微笑み合った夫婦でさえ、ささいな偶然のために崩れ去った。ならば――)
「結局、びびってるんだよな俺……」
 布団から半身を起こし、そうぼやいた。
「ん……ー?」
 隣で布団がもぞもぞと動き出す。いつものように、頭をぽんぽんと撫でてやった。彼女は夢見心地のまま、両腕を差し出してその腕をかき抱く。二の腕をがっちりとホールドしたまま、幸せそうに頬ずりした。
 片腕を恋人に預けたまま、安心した彼女が再び寝入るのを待つ。
 枕元の時計はそろそろ起床すべき時刻を指している。再び彼女が目覚めぬよう、慎重に腕を引き抜いた。
 音を立てないよう、ゆっくりと着替え、準備を整えた。
 テーブルに、書き置きを残す。

「千紗さんへ
 よく眠っていたので、起こさずに出ます。
 昨日の件だけど、もう少しだけ考えさせて下さい。
 出張から帰ったら、もう一度話をしよう。
 それでは、行って来ます。

 追伸。俺がいなくても、野菜はきちんと食べるように!」

 音を立てないよう、ゆっくりと玄関の扉を開けた。開いた扉の隙間から直接差し込んでくる日差しに、思わず顔をしかめた。


*****


 左手をかざして光を遮り、しばらく目を閉じて光の洪水に耐える。トンネルの暗闇に慣れきった目は、順応するまでに思った以上の時間を要した。
 ようやく機能を取り戻した目で辺りを眺めると、小さな畦道が孝を迎えた。道の両脇に数軒の廃屋が並んでいる。十年以上は昔にうち捨てられたと思われるその軒並みは、蔓草や苔に覆われて、緩やかに山と同化しつつあった。
 「へぇ……」
 それはなかなか絵になる風景だった。しかし、と孝は首を傾げる。
 「ちょっと寂しすぎやしないか、これは?」
 郷愁を誘う映像ではあるが、あまり前向きな感情を呼び起こすものではないように思える。この風景のどこに、二人を微笑み合わせるものがあったのだろう、そんなことを考えた。あるいは、この先に「それ」はあるのだろうか?
 半ば以上雑草に覆われた畦道を、ゆっくり進んだ。道は、蛇行を繰り返しながら徐々に傾斜を増していく。どうやら、このまま山頂に向かうようだ。
「毒喰わば皿まで、といきますか……」
 孝は、自転車を押しながら一人呟いた。トンネル内で冷え切った体から、ふたたび汗が染み出してくる。


 早春であることが幸いしたのだろう。枯葉に埋もれた山道は、人通りが絶えているにも関わらず下草の丈が低く、思ったよりも登りやすかった。
 さやさやと流れる小川の横で、落葉から割って出るようにワラビやフキの芽が顔を出している。見上げる木々の新緑より、もう一つ軟らかい薄緑。萌葱色と呼ばれ、旧くから人に愛されてきた色彩である。
 長い冬を土の下で耐え、初春のほんのわずかな間、自分より遙かに背の高い木々の葉が天蓋を覆い尽くすまでの限られた時間を己の全てと陽光に手を伸ばす赤子達の手が、褐色の地肌をコントラストにしてみずみずしい生命を放射していた。
 それはありふれた春山の景色ではあったけれど――それでも十分に心震わせる風景でもあった。これだけでも、今日ここに来た価値はあったかな……そんな感慨を胸に山頂を目指す。
 唐突に、山頂に達した。
「あ……」
 孝は、ポカンと口を開いた。山頂から見下ろす風景の中に、小さな集落が見えた。
「爺さんの村じゃんか……」
 村の象徴たる、山腹の赤い鳥居が見て取れた。それと共に、記憶にある幾つかの建物も視える。
「へぇ……」
 どうやら、トンネルは村へと続く道のショートカットだったらしい。自動車が普及するより以前、この道を多くの人々が行き交っていたのかもしれない。
 村の中央を小さな川が流れ、両岸に植えられた柳の木が涼しげに葉をさやめかせていた。対岸の斜面に神社と鳥居がそびえ立ち、それに守られるようにささやかな軒並みが連なっている。僅かに開けた平地とそこから続く斜面は、褐色の田圃に覆われている。あと一月もすれば、水が田を巡り、稲の緑が一面を覆うだろう。
 小さな村だが、山水と調和の取れた良い風景だと思った。名も知らぬあの夫婦は、この風景を分かち合うために此処に来たのだろう、そう思った。それは、大切な人と共有したいと思える風景だったから。
 特徴的なシルエットの村役場を見つけ、そこから視線で通りを遡る。
「あ……あった」
 祖父の家、すなわち父の生家が見て取れた。
(ああ、そうか……) そしておそらくは、父と母も、また。
「道は一つとは限らない……ってとこなのかな、爺さん」
 今、まさにこの風景の中で生きているであろう祖父に向かって、確認するように呟いた。
 目指す地へと続く道は、時の中でいくつも途絶え、そしてまた生まれていく。今ここに広がる風景はもちろん掛け替えのないものだが、ひっそりと朽ちていく家並みも、木々の下で芽吹いた萌葱色も――そして、汗を拭きながら見下ろした峠の風景すら、心震わせる唯一の情景であった。ならば、坂を越え、暗闇を抜けることをそう畏れる必要はないのかもしれない。
 「それにまぁ……考えてみりゃ、今の俺、結構幸せなんだよな……」
 孝は腰を下ろし、飽くことなくその風景を眺め続けた。


*****


 携帯電話を手にした。
 目の前に広がる光景を眺めながらボタンを押し、彼女の声を待つ。


「千紗さん? ……うん、孝です。今、山に登ってる。ここから、爺さんの村が見えるんだ……良い眺めだよ。
 ……ああ、打ち合わせ昨日で終わったから、今日は休日を満喫……はは、怒らないでよ、愚痴は帰ってから聞くからさ」


 ――後ろを、振り返る。
 見下ろす先に、トンネルの出口が見て取れた。


「で、ね……身辺整理の件だけどさ。 ……いや、千紗さんが初めに言った言葉じゃんか。
 ……憶えてない? ひどいなぁ……職場でからかっておいて忘れないで下さいよ、武田主任。
 そう、それ。思い出した? ……そのことなんだけどさ……」


 ――そこに、母の手を引いて笑う父の姿が見えた。
 今、自分も同じ笑顔をしているのだと感じる。


「……千紗さんと一緒に、この風景を見たいと思う。
 貴方と、ここで暮らしたい。 ……一緒に、来てくれますか?」


 ――そして、その後ろから、二人を見つめて笑う少年の姿が。


 




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