神様のサイコロえんぴつ


「やっぱり私は、」  斜め前を歩きながら、彼女は不機嫌そうな声を上げた。
「神様はサイコロを振らないと思うんですけど」
 小刻みな彼女の歩みに合わせて、ポニーテールが上下に揺れる。開いた口からこぼれる白い煙が、冬の名残を思わせた。
「少なくとも、量子の世界では」
 ポニーテールの端を目で追いながら、僕は授業で聞いたばかりの蘊蓄を披露する。
「神様はサイコロを振っている、つまり、事象は観測されることで初めて収束すると解釈した方がシンプルな仮説で現象を説明できるんだ。だから、」
 今朝から何度目になるのか、もうわからなくなった台詞をもう一度繰り返した。
「ここから三つ目の交差点を右折して三百メートルほど先の大きな校門を抜けて、わりと良い感じの桜並木を潜った先の掲示板に1197番の番号があるかどうかは、武田が目にするまで分らないっていうこと」
「そんなこと無いです、もうとっくに落ちてます私なんて。
 ……だいたい、その言葉励ましにも慰めにもなってないじゃないですか」
 彼女の頭がっくりと落ち、代わりにポニーテールが天を仰いだ。
「私がここから三つ目の交差点を右折して三百メートルほど先の大きな校門を抜けて、綺麗な桜並木を潜った先の掲示板を確認しようがしまいが、」
 次の瞬間、ポニーテールが猛烈な勢いで地面を向き、反作用で彼女は痛烈な勢いで天を仰ぎ、そして激烈な勢いで捲し立てた。
「B判定だった私の過去は変らないし、不安すぎて寝付けなかった前の日の夜も変らないし、そのせいで朦朧としてて問題用紙の最後のページに気付かなかった痛恨のミスも変らないんです。最後の問題なんて、もう時間無いからエンピツ転がしたんです、見て下さいよこのエンピツ、この面が1でそこから時計回りに6まで選べるんです!」
 鞄からわざわざ取り出したエンピツを目の前でぶんぶん振り回す。根本が一部カッターで削られており、そこに小さく「武田」と書かれていた。まるで小学生のエンピツだ、思わず吹き出しそうになった。
「どうどう」
 そう言いながら彼女をなだめる「ふり」をした。こういう動作は彼女を余計に逆上させるのだが、落ち込んだ姿よりはこっちの方が彼女らしくて好きだった。
「いいじゃない、ここの結果がどうだって。私立は受かってたんだろ?」
 聞いた話だと、彼女が合格した私立はここよりもレベルが高いらしい。何をそんなに深刻ぶる必要があるのだろうか、と不思議でならない。
「私にとっては、こっちが本命なんです」
 彼女はムスッとして答えた。
「さいで」
 そう受け流すと、しばらく沈黙が続いた。
「じゃあさ、こう考えようか。エンピツ転がした最後の選択問題、半分あってれば合格してるよきっと」
 えー、と不審に充ち満ちた声を上げて、彼女はこちらを睨め付けた。
「じゃあ早速計算してみよう。三択の問題が四つで、その中で最低二つが正解している確率だから、確率はえーっと」
 その瞬間彼女の姿が視界から消え去り、ドスッという音と共に鳩尾に何か重いものが直撃した。
「信じられない! 今更そんな計算しないで下さいよ、折角受験から解放されたっていうのに!」
 彼女の鞄がわりと良い角度で横隔膜を直撃したらしく、俺は息を詰まらせてその場にしゃがみ込んだ。
「うへっ、相変わらず容赦ないね」
「容赦ないのはどっちですか、死人にむち打つような真似して」
「大丈夫大丈夫、計算したら確率そんなに悪くなかったよ。そのエンピツが1の目を出すのとそう変ら」
 スコーンという音と共に、彼女の鞄は今度は俺の顎を打ち抜いた。俺はその場にうずくまり、ぶんぶんと鞄を振りながら交差点を渡っていく彼女を見送るのだった。


 数分後、足下が回復したのを確認してからゆっくりと彼女を追いかけた。
 早くも人混みにまみれた掲示板前は、ざわざわと不安気な声に満ちていた。どうやら、合格発表の掲示までもう少し時間がかかるらしい。人混みの後ろから彼女の姿を探したが、彼女のポニーテールは見つからなかった。
「まいったな、はぐれちゃったか」
 ぼやきながら道を戻っていると、校門と掲示板をつなぐ桜並木の脇で一人、彼女が所在なさげに立っているのが見えた。どうも、この合否は彼女にとって何か深刻な意味を持っているらしい。並木の下で、不安気に立ち尽くしたまま右手に持ったエンピツを弄んでいた。
 肩を並べる位置まで辿り着いて、彼女はようやく僕に気付いたらしい。気恥ずかしそうに笑ってこちらを見やった。
「まだ貼り出されてませんでした……それで、そのまま掲示板の前で待ってるのが怖くなって」
 思わず苦笑した。
「大学の合否なんて、そんな深刻な問題じゃないだろ、滑り止め受かってるなら尚更」
「そんなことないですよ。ここの合否が私の……えーっと、私の人生を左右するかもしれませんし」
「んな大袈裟な」
「先輩はいい加減すぎるんです。そんな風だから、」
 俯いたまま彼女は拗ねるように呟いた。
「……私に振られちゃったりするんです」
 まいったな、と思いながら天を仰ぐ。
 お久しぶりです、武田です。明日、合格発表なんです。先輩の通ってる大学。良かったら、付き合ってもらえませんか?
 一年ぶりの電話が嬉しく、軽い気持ちで引き受けたことを少し後悔した。そういえば、彼女はことのほか思い詰めるタイプだった。そして僕は、そういう深刻な局面に触れるとつい茶化したくなってしまう性分であり、一年前に二人は「相性が悪かったと」いうありふれた結末を迎えることになる。
「じゃあ、こうしよう」
 手を伸ばし、彼女の右手からエンピツを抜き取った。ほんの一瞬手が触れ、彼女はビクッと体を振るわせてこちらを伺った。
「これからこのエンピツを転がすよ。そして、1の目が出たら武田は合格してる」 唐突すぎるその提案が理解できなかったらしく、彼女は二度三度と目をしばたかせた。
 彼女の前で数回エンピツを振り、彼女の目に理解の色が見えたことを確認する。そのままエンピツを放り投げようとして
「や・め・て・ください」
 彼女の右手が俺の右手を押しとどめた、というよりねじり上げた。
「そんな、サイコロ振るみたいに決めないで下さいってば」
 予想外の力の強さと予想外の強い眼差しに、少したじろいだ。
「気に障ったなら謝るけど、受験もサイコロも所詮は確率だろ」
「違います。やっぱり、神様はサイコロを振りません」
「いや、先も話した通り」
「それから、先輩は鈍感に過ぎます。私がこの大学受けた理由、昨晩少しは考えてみてくれましたか?」
 そう言った後、彼女は口を閉ざしたまま俺を睨み続けた。
 沈黙が続く。
「うーん、気を悪くしたのなら謝るけど、やっぱり神様はサイコロを振らないと思うよ」
 沈黙が気まずく、はぐらかした台詞でお茶を濁した。
「はぁ……」
 彼女はがっくりと肩を落とした。
「先輩の鈍感さといい加減さ、ここ一年でさらに磨きがかかったように思います」
「いやぁ、お褒めにあずかり」
「褒めてません」
 言い切る前に突っ込まれた。
「……はぁ」
 もう一度溜息を吐かれる。
「なんか、当初と予定が変わっちゃったけど……」
 少し俯いて、ボソボソと呟く。
「え、何って?」
「何でもありませんっ」
 俺の質問を押しとどめて、彼女は小さく咳払いをした。
「……いいでしょう、神様はサイコロを振らないと証明してさしあげます」
 彼女が顔を上げ、俺の手からエンピツを奪い取った。
「先輩の説に従えば、このエンピツがどの目を出すかは、観察されるまで確定しないんですよね? でも、それは違います。何故なら、私がこれから振るエンピツの目は、必ず1の目が出るからです。イカサマとかそういうんじゃなく、出ることが決まってるんです」
 まるで戦いを挑むような視線だ。思わず目を反らせてしまった視線の先に、丸めた模造紙を抱えて掲示板に向かう人影が写った。
「えーと、そろそろ合格発表が貼り出されそうだが」
「今はそんなことどーでもいいんです! もう、今日は合格発表なんて見なくていいんです!」
「はい?」
 唖然とする僕をそのままに、彼女はさらに言葉を進めた。
「何故1の目が出ると決まっているのか。それは、1の目が出たら私はこの大学に合格しているからです。そして、」
 彼女は顔を伏せた。小さく息を吸い、大きく息を吐き出した。
 思い切り顔を上げた。
「1の目が出たら、私は、もう一度、先輩に告白するからです」
 泣いているような笑っているような彼女の顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。
「他の目が出たら、私はこの大学を落っこちて、そして別の大学で先輩よりカッコイイ人見つけます。
 どうですか! これでも、未来は観測するまで決まっていませんか!?」
 顔を真っ赤にしたまま両目を閉じ、彼女をエンピツを持った右手をぶんぶん振り回した。
「いいですか、ふ、振りますよっ!」
 振り回された彼女の右手を、咄嗟に捕まえた。
「いや、ちょっと待った」
「なんですか、今更止めないで下さいよ!」
 彼女の右手を捕まえたまま、僕は大きく息を吸い、小さく吐き出した。
「そのエンピツ、俺に振らせろ」
 ずいと身を乗り出し、彼女の目を正面から見据える。赤くなった彼女の目がこちらを見つめている。
「俺が1の目を出す。多分、1の目が出る」
 大きく目を見開いていた彼女の表情が、泣き笑いのような笑みに崩れた。
「ん、じゃあ先輩にお任せします」
 彼女の右手に掌を合わせ、ゆっくりとエンピツを抜き取った。代わりに、左手で彼女と手をつなぐ。
「じゃあ、いくよ」
 目を閉じた。大きく息を吸い、大きく息を吐く。二人の深呼吸が重なる。
 振りかぶった右手を、前方に大きく放り出す。

 並木の向こうで、ざわめきが大きな歓声に変わる。




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