蛍火


 盆前の蒸し暑い日、市民病院の一室。
 祖父は、あっけなく息を引き取った。やけに蝉のうるさい昼下がりだった。

 看護婦が廊下を行き来するさまを、僕はただ呆然と見送った。(あっけないもんだな……) 思いつく言葉はそれだけだった。
 母が、父の肩に顔を埋めて泣いている。父の背も、かすかに震えていた。親父の泣く姿なんて、初めて見たな。
 待つことから解放された看護婦達の妙な活気が、妙に鬱陶しかった。ナースステーションで鳴り響く呼び鈴がいつまでも止まず、耳を塞ぎたくなった。

 ……リリリリ、リリリリ、リリリリ、リリリリ、リリリリ……


 母から電話があったのは確か、夏休み前の夕刻だったと思う。とりとめもない会話が数分続いた後、母はためらうように切り出した。
「おじいちゃん、先週入院したのよ」
 僕の記憶にある祖父の姿は闊達そのもので、その言葉に現実味はわかなかった。
「どこか悪いの?」
「どこが悪いとか言うんじゃないの。ただ、こっちの家に来てから元気をなくしちゃってね」
「でも、入院って……」
「……やっぱり、家のことが堪えてるんでしょうね」
 祖父が帰る家を失ったのは、二ヶ月前のことだった。祖父がその人生の殆ど全てを送った山間の小さな村に、ダムが建設されようとしているのだ。もうすぐ堰が閉められ、村は完全に水没するのだと、母は言った。
「堰が閉じること知ったら、またおじいちゃん弱っちゃうと思うのよ。あんたが顔を見せたら、少し元気出るから。大学はもうすぐ夏休みでしょ、帰ってらっしゃい」

 半年ぶりに会った祖父は清潔な白いベッドの上でやたら弱々しく見え、その驚きを悟られないよう振舞うのに少なからず苦労した。病室というのは健康な人でさえ不健康に見せるものではあるが、それを差し引いても祖父の衰弱は尋常でないように思えた。
「おお、よう帰ってきたな」
「ただいま。大学、夏休みに入ったから帰ってきたよ」
「長旅で疲れたろ、ここにお座り」
 ベッド脇の椅子を寄越そうと体を起こす動作は妙に緩慢で、十年来の病人であるかのようだった。
 唖然とした僕の様子を悟られることを恐れたのだろう、
「今帰ってきたとこだから、一度家に戻らせますね。明日また来ますから……」
 母はそう言って、早々に病室から僕を押し出した。

 居間にバッグを放り投げて縁側で風鈴を眺めていると、母が麦茶を持って来て隣に座った。
「びっくりしたでしょ」
 そう言って、少し笑った。
「ん……正直言って、かなり」
 冷えた麦茶を一口すすった。煮出しすぎの麦茶を一口すすり、少し眉をひそめた。
「正月は元気だったのにな」
「こっちに引っ越してきてからずっとふさぎ込んでてね。庭いじりもしないし……」
「やっぱり、ダムが?」
「そうでしょうね」
「ばあちゃんが亡くなった時でも、あそこまで落ち込みはしなかったのにね」
「村にはおばあちゃんのお墓もあるでしょ……きっと、二人分辛いのね」
 母は、両手で包むようにグラスを持って、麦茶に口を付けた。
「堰のこと、どっかで聞いたのかな」
「いえ、そのことは伏せてるのよ、今は知らない方がいいと思う」
 そうだろうなと思った。ほんの三十分前目にした老人は、記憶にある祖父の姿とどうしても重ならない。
「あのくらいの年の人になるとね、心が弱っちゃうとすぐに体も弱っちゃうから」
 垣根を眺めながら呟いた。僕は返す言葉が思いつかず、無意味に麦茶を舐める動作を繰り返した。
「村に帰れないのって、それほど辛いものかな」 沈黙が気まずく、思いつくままに疑問を口にした。
 ヒグラシが鳴き始め――そして鳴き終える。母は沈黙を保ったまま、ゆっくりと視線を風鈴に移した。
「町育ちのあんたには、分からないかもね……」
 幾分涼しい風が縁側を洗っていった。風鈴が、母に同意するように、二度、三度と揺れた。

 ……リーン、リーン……


 僧侶の鳴らした鐘の音が、葬式の終了を示しているらしかった。静粛としていた斎場の空気が、既にざわざわと動き始めている。
 祭壇の額縁には、闊達とした老人が笑顔を見せていた。憔悴しきった祖父の姿にようやく目を馴染ませていた僕にとって、それは違和感を感じさせる光景だった。
 会釈と共に帰路につく参列者に対し、両親に倣っていちいち丁寧にお辞儀を返した。参列者の大半と面識がなかったし、僕の動作は殆ど機械的だったと思う。
 火葬場に向かう車の中で、母は何度目かの嗚咽を漏らしていた。父は既に――少なくとも外見上は――毅然とした態度を取り戻していた。二人はそれぞれに祖父の死を受け入れていると思った。一方、僕は未だに現実味を持てずに、どんな表情をすれば良いのか、半分途方に暮れていた。
 そして、途方に暮れたままの僕の前で、祖父は煙になった。
 瞼の上を、親指と人差し指で強く押し込んでみた。涙は流れなかった。


 それから数日は、弔問客の応対でそれなりに忙しい毎日だった。そしてそれも終わると、ただ空虚な時間が家を満たした。
 共働きの両親が仕事に出ている時間、僕は一人遺影と向き合う。その時間は、祖父の死と対峙するために使うこととなった。

 記憶は三週間前から始まる。
 帰省した孫に、確かに祖父は元気付いたように見えた。よく喋るようになった、入院してからめっきり無口になっていたんだが、と父も母も喜んでいた。
 しかし、数日すると違和感を感じるようになった。一通りの話を終えると、後はひたすら村の思い出を話し続けるのだ。両親の不審が不安に替わるのに、そう時間はかからなかった。
 過去の話を繰り返す病人は、確実に命をすり減らしていくものだ。僕達三人は、何とか祖父の興味を未来へと向けようと工夫を凝らした。祖父は決して意固地な人間ではなく、僕達が持ち出す話題にきちんと対応してくれている。しかし、その話は決して長続きしなかった。
 村の外に、祖父の世界が無いのだった。

 二週間前。
「神川の話をしたことがあったかな……」
 その日珍しく沈黙を保っていた祖父が、唐突に語りかけた。
「……蛍が沢山出る川のこと?」
 不意の話題に驚きつつ、村を流れる小さな川のことを思い出した。祖父はゆっくり頷いた。
「神社のふもとを流れる小さな川。昔、盆祭りの時連れて行ったことがあったろう」
「小学校の頃だったっけ。そういえば、盆祭りの季節も近いね」
「どうして神川にあんなに沢山の蛍が居るか、話してなかったな」
「うん」
 祖父は、訥々と語り始めた。

 その昔、村の若者が天女と恋に落ちたという。
 苦心の末二人は結ばれたが、天女たる妻は年を取らず、夫だけが年老いていった。
 夫と共に年老えないことを嘆いた天女は、山におわす神に願い、ある使命と引き替えに人の定命を得た。それは、死後蛍の精となって村で命尽きた者の魂を山に導くことだった。
 天女は夫と共に亡くなり、蛍は夫の魂と連れ添いながら山を昇っていったという。
 ――それ以来、蛍は死者を天に送る使いとして、そして、盆に肉親の元へ帰る魂を運ぶ船として、手厚く守られてきたのだそうだ。

 昔話を語る表情は、帰省してから見るいかなる姿よりも穏やかだった。
 今思えばきっと、祖父は堰の閉じることを知ってしまったのだろう。その姿に危うさを覚えつつ、為す術を持たない僕は曖昧に頷くしか出来なかった。
「今年も、蛍は飛ぶかなぁ……」
 夕闇の向うから、コオロギが鳴き始めた。
 肯定するように、慰めるように。

 一週間前。
 あの日から、祖父の容態は急激に悪化した。うわごとのように、村の話だけが繰り返される。もう、誰の声も、誰の姿も届いていないようだった。

 そして、当日。
「帰りたいなぁ……」
 それが、最期の言葉だった。

 突然、回想から現実に帰った。急いで、ここ数日の新聞をかき集める。
 ……そうだった。 「帰りたい」と言ったのだった。
 僕は叶えてやることが出来るのではないか?
 探していた記事は、六日前の日付にあった。 「**ダムは本日より閉門。十日後に満水となる予定――」 まだ、間に合うはずだ。

 八月十五日。
 その日、僕は計画を実行に移した。

 高校卒業までを過ごした僕の個室は、帰省した時のためにそのままの形でとっておかれていた。そこには、当時の趣味であった釣り用の小型ゴムボートが置いてあった。居間に書き置きを残し、ボートを車に積み込む。骨壺から祖父の欠片を少し取り出し、懐に忍ばせたガラス瓶に移した。
 「そういえば、今日は盆祭りだったな……」 今朝、出勤する前に父が呟いた言葉を思い出した。

 車を走らせること数時間、太陽はとうに山の向うに隠れてしまった。ライトを点け、曲がりくねる山道を黙々と上り続ける。すれ違う車も無く、二人だけで粛然と進むそれは、葬送の道行に相応しいと思えた。
 さらに一時間も経ったろうか。ヘッドライトが「立入禁止」と書かれた看板を照らし出した。そこが村の入り口だ。 道の脇に車を止めて、後部座席からゴムボートを引きずり出した。胸ポケットに祖父を、右肩にボートを抱え、左手に持ったライトで足下を照らしながらゆっくり道を降りていった。
 月のやたら大きく見える夜だった。目が慣れれば、ライト無しでも十分に視界が取れそうだ。
 村は、既に十m近く水に没しているようだった。昼間見たテレビニュースでは、比較的透明な水の下に村の佇まいが見えていた。しかし、今宵は月光が水面を照らし、その下の風景は伺い知れない。
 対岸に目線を移すと、山頂の社へと続く鳥居の列が、水中からせり上がるようにして見える。ふもとから続いている鳥居は、既に一部が水没していた。本来鮮やかな緋色のそれは月の青白い光を反射し、形容できない色彩と存在感をもって頂上の社を導いていた。月光を背にしたその風景は、真夏のこの時期に肌寒さを感じさせる程、厳粛で美しく感じられた。
 祖父の家は社のある山の中腹にある。山陰に遮られてここからは様子を伺えないが、辛うじて水没を免れているように思われた。
 ガードレールを跨いで、林道を下っていく。水際に辿り着いた僕は静かにゴムボートを降ろし、ゆっくりとオールを漕ぎ始めた。

 オールが水を叩く波紋が、湖面の月を揺らしていた。さざ波がボートにぶつかる微かな音が湖面に溶けていく。数分後には木々のざわめきさえも届かなくなり、静寂だけが辺りを充たした。
 オールを漕ぎながら、祖父の言葉を思い出す。
「今年も、蛍は飛ぶかなぁ……」
 あの時、言えなかったことがある。今年、蛍は飛ばないだろうということを。
 水中で成長する蛍の幼虫は、一度乾いた土手に上って穴を掘り、その中で成虫へと羽化する。土手の水没した今では、蛍は羽化できなかったであろう。村と共に水底に沈んだろう。
 子供の頃、飽きもせずに眺めた蛍の群を思い出していた。二度と戻らない風景は、それだけでかけがえのない温もりをもたらすものらしい。脳裏に浮かぶ蛍の群は、泣きたくなるほど美しく、そして遠かった。
 僕もまた、故郷を喪ったのかもしれない。

 思いに耽っているうちにもボートは進み、気付けば、対岸の鳥居は見上げる位置にあった。
 そこに至って僕は、月明かりしかないはずの湖畔が不自然に明るいのに気付いた。月明かりと似た青白色の、しかし明らかに月とは異なる光に水辺が包まれている。光の源は何処とも特定できず、強いて言えば湖畔自体が淡い光を放っているように見えた。(もしかして……)  当惑と僅かな期待を抱き、ライトの灯を消した。
 その瞬間、湖畔の草むらから信じられないほど大量の蛍が飛び立ち、湖畔を、そして僕を囲み照らしたのだった。
 草陰から解き放たれた光は一気に光量を増し、湖畔を淡い青色に染め上げた。光の乱舞は次第にその量を増していく。どうやら、川の上流から次々と湖畔に向かってきているらしい。呆然と眺めている間にも蛍火は増えてゆき、懐中電灯の光に慣れていた目にすら眩く感じられる程であった。
 狂おしくも淡い光は、湖畔を照らし、鳥居を照らし、そして、湖底の村さえ浮かび上がらせた。それは、村中の蛍が集結したと考えなければ説明の付かぬほどの乱舞だった。
 水位の上昇を察知した蛍が川の上流へと逃れ、ここで一斉に羽化したというのだろうか。
 水を透かして見える湖底の風景に、水面に照らされる蛍火の舞が重なり合った。それはまるで、提灯の灯を持った子供達が駆け回る様を俯瞰するかのようだった。
「そう言えば、今日は盆祭りだったよな……」
 知らず流れた涙さえ、燐光を放っていたかもしれない。思えばそれは、祖父の死後初めて流す涙であった。
 蛍の舞は盆祭りの夜を彩り、いつまでも終わる気配を見せなかった。


 数日後には、ここも水に没してしまうのだろう。そして、この村で生涯を終える人も最後となる。僕は、彼等が最後の蛍であることを思った。天女は永年にわたる使命を終え、今度こそ永遠に夫と連れ添うだろう。最後の務めとして、祖父の魂と僕の想いを運んで。
 祖父の今際の言葉、「村に帰りたい」は実は「還りたい」だったのかも知れない――ふと、そんなことを思った。

 ガラス瓶に蛍が一匹とまっていた。祖母が迎えに来たのだなと、そう思った。
 蛍は一際明るく光りながら飛び立ち、鳥居をくぐりながら山を昇っていく。
 その後を一つ、小さな蛍火がついて行くのを、僕はいつまでも、いつまでも眺めていた。




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