時速85kmの風に乗って


 最後の直線,急傾斜の下り坂の半ばを過ぎて,ついに拓也は風になった。
 手元の簡易速度計は,ここに至ってついに時速85kmを越えた。計算通りだ。空気が壁となって彼の顔を叩き,必死の思いで開いた目からは絶えず涙が吹き出ている。駆る自転車が今にも壊れそうな悲鳴をあげている。ゴウゴウと鳴る風の音と,バクバク鳴り続ける心臓の音がそれに調和して,壮大なオーケストラを奏でていた。

 すげぇ,オレ,今,生きてる!

 十四年に及ぶ拓也の人生のなかで,脳内麻薬の分泌量は歴代ダントツの一位であった。ちなみに歴代二位は,彼が初めて寧々さんとゴニョゴニョした夜の事であったが,その物語は脇に置く。
 拓也の視界がさらに狭まる。焦点は中央のほんの一部で定まっており,その他は薄ぼんやりとしている。そのくせ空の青さは突き抜けるほどに透明で,拓也はその美しさに息を呑んだ。嗚呼,この一秒は永遠のようだ。

 永遠はあったぞ,ここにあったぞ!

 拓也は心の中で快哉をあげた。その横で寧々さんが微笑んでいる。ハンドルを握りしめた彼の手に,そっと手を添えた。血の気が引いて真っ白になった右手が,ほんのり温かくなる。彼は時が来たことを知った。
 限界まで伏せていた身を持ち上げ,両手をハンドルから離す。そのまま,腕を天高く掲げる。
 誇りに満ちたその姿は,ツール・ド・フランスを七連覇した鉄人,ランス・アームストロングの様であった。

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 ここで,時間を十分ほどさかのぼる。
 八月某日,早朝五時。
 ウグイスのさえずる涼やかな山奥,乃木山の山頂に拓也は立っていた。薄く藍色に染まった空は,数分単位で色を変えて夜明けの気配を漂わせている。
 傍らには,長年の彼の相棒が立っていた。黒光りする一台の自転車。フレームに,凝った字体で「流星号」と刻印されている。
 この日のために,拓也は流星号に最高級のメンテナンスを施した。サドルを限界まで上げ,買い物かごを撤去し,サビの付いたチェーンを念入りにタワシで洗い,そのあと機械油をたっぷりと挿した。チェーンのみならず,ありとあらゆる駆動部に,そしてブレーキパッドにもたっぷりと挿した。油瓶の中身は空になったが構わなかった。
 この挑戦が終わった後,二度と流星号に油を挿してやる事はないだろうから。
 流星号と過ごした少年時代が走馬燈のように脳裏をよぎり,拓也は不覚にも涙をこぼしそうになった。自らの頬を両手で叩き,笑顔で背後を振り返る。
 付き従うは九人。
 小さく保守的な町の中で白眼視され,それ故強い絆で結束された同志だった。
「よし,最後の確認をしようか」
 拓也は微笑んだ。幾人かが笑みを返し,幾人かは上手く笑えずに泣き笑いのような表情を形作った。
 懐から出した一枚の地図を地面に置く。乃木山周囲の白地図だった。
「現在地がここ」
 彼はしゃがんで,山頂に赤で書き込まれた旗印を指す。
「ここから1キロ先まで,緩やかな下り坂と緩いカーブが続く。ここでは無理に速度を上げる必要はない。目安は時速40キロだ」
 赤線の記された道を指で辿る。同志達の熱い視線が地図の上に注がれているのを感じる。拓也は満足げに頷いて話を続けた。
「そして,下り坂の最後の一カ所。ここにRの強いカーブがある。手前でしっかり右に寄る事を忘れなければ大丈夫,ノンブレーキで行ける。カーブを脱出して,残りの下り坂100mを全力で漕げ。ここで55キロを出して,その勢いで続く『心臓破りの坂』を超える。登りの途中も全力漕ぎを忘れるな。頂上で時速15キロを下回っていたなら,ミッション失敗だ。失敗した者は,この次点でリタイアすること。分かってるな?」
 応,と力強い声が返る。
「ホントに分かってるのかねぇこいつらは」
 拓也が軽口を叩くと,
「それはこっちの台詞」
 信二にそう切り替えされた。笑い声があがり,体の硬くなっていた連中の緊張が解ける。絶妙の返しをくれた親友に感謝しつつ,彼は話を進めた。
「ここから170メートル,再び緩いカーブと下り坂が続く。なるべく速度を稼ぎたいのは当然だが,ここは慎重に行く。終点にまってるのは,諸君ご存じ,『走り屋殺し』のヘアピンカーブだ」
 拓也の指がうねりくねった道の上で止まり,同志達はゴクリと息を呑んだ。
「残り50メートルで,各自漕ぐのを止めて位置取りに集中すべし。左ギリギリ,白線とアスファルトの間の幅を辿る。そして,カーブ手前15メートル……ここが勝負所だ」
 拓也は立ち上がり,熱い目で朋友達を見渡した。
「全力でハングオン,明日に向かってアウト-イン-アウトだ!」
 おおおおお,と同志達の雄叫びが木霊する。皆のテンションは最高潮に達していた。
 拓也は満足そうに一つ頷いた。
「目安のため,この地点の木の枝に幸せの黄色いハンカチを吊しておいた。危険を恐れずノンブレーキで突っ込んだ先に,俺たちの目指す世界がある。カーブによる減速を抑えて,出口で時速45kmが条件だ。ここで速度確保に失敗した者も,潔くリタイアしてくれ」
 拓也は大きく息を吸った。
「その先,平均傾斜角度20度。約400メートルの直線だ。全力で漕いで,2.5秒後に念願の時速85kmを達成するはずだ。その時……その時こそ,俺たちの大願は成就するだろう」
 高らかなる宣言に,怒号のような鬨の声が唱和した。
 銘々が愛車に乗り込み,拓也の合図を待ちわびている。流星号にまたがった彼は,雄々しく宣言した。
「行くぞ諸君!」
 鬨の声と共に,八つの自転車が一斉に坂を下り始めた。


 順調な滑り出しと言えた。八台の自転車は,銘々の距離を保ちながら拓也の後を付いてきている。
 流星号のハンドルには簡易速度計が結わえ付けられている。皆のなけなしの小遣いを集めて買った物だ。拓也は,一台しかない貴重品を快く譲ってくれた皆に感謝すると共に,彼らのためにもリタイアすることなく初志を貫徹しようと決意を新たにした。
「いよいよだな」
 速度を上げて拓也の隣に並んだ信二が,笑いながら話しかけてきた。ああ,と答えながら拓也は笑みをこぼした。流れる風が心地よい。
「これが最後になるかもしれないから,言っておく」
 信二は,急に神妙な顔になった。
「何だよ藪から棒に」
「まあいいから聞け」
 受け流そうとする拓也を遮って,信二は言葉を続けた。
「何も知らないお前を,こんな茨の道に誘ったのは俺だ。悪かったな」
「今更そんな事言うなよ」
 拓也は小さく笑った。
「お前が居なければ,俺は今もこの小さな町で,理想も夢も持たず燻っていただろう。あの,灰色の繭に包まれて緩慢に腐っていく大人達のようにな。俺は感謝しているよ」
「そっか」
 信二は軽やかに笑って,ペダルを漕ぐ足に一際大きな力を込めた。
「じゃあ,遅れず付いてくるんだな。そんなペースじゃ夢に届かないぜ!」
 速度を上げて,信二は拓也たちを置いていく。オーバーペースだぞ,と諫めようとする拓也の横に,その他の同志が並んだ。
「遅いぞ拓也」「もう我慢できないっすよ」「速さの先へ行こうぜ!」
 次々と拓也を抜き去っていく。
「待てや,この猪どもが!」
 拓也は笑いながら,彼らを再び抜き去るべく前傾姿勢を深めた。
 

 緩い下り坂を過ぎ,いよいよ最初の難関を迎えようとしていた。急角度の左カーブ。通常ならば減速と共に苦もなく通り過ぎる場所だが,ここで速度を落とす訳にはいかない。拓也は右手を振って後続に合図を送った。信二達は予定通り,五メートルの間隔を取って一列縦隊になる。
 拓也は大きく二度息を吸い,止めた。ただ無難に曲がるだけではいけない。後続に進路を示すべく,可能な限り理想的な進路を取らなければならないのだ。彼の両肩にプレッシャーがのしかかった。
(寧々さん……俺を導いて下さい)
 想い人の名を唱えながら,彼は重心を左に傾けた。アスファルトが一気に近づく。カーブの根元,コンクリート護岸の切れ目を目指してハンドルを微調整する。足下のタイヤがグリップを失う恐怖を必死にこらえて,カーブの再内を目指す。視界いっぱいにコンクリートの灰色が広がり,激突するかと冷や汗をかいた,その次の瞬間。薄青い空が拓也の目を捕らえた。安堵のため息を付きそうになる自分を叱咤して,右ハンドルをわずかに戻す。勢いを殺さず,ガードレールすれすれを通って左傾を立て直さなければならない。慎重に,慎重に……。
 直線に出て,拓也は大きく息を吐き出した。理想的な進路を取れたはずだ。ここから暫くは直線の下り坂。続く上り坂のために速度を稼いでおく必要はあるが,同志の中で比較的脚力に優れた拓也にとっては造作もない事だった。確認のため後続を振り返る。
 最後尾を走る信二の前に,不自然な空白が生まれていた。
「やられた! カブトの野郎だ!」
 信二の叫び声を聞いて,拓也は何が起こったのかを悟った。
 周囲を山林に囲まれたこの町において,大型の甲虫類はしばしば凶器と化す。中でも最凶を誇るのがカブトムシとミヤマクワガタであり,とりわけバイカーとチャリダー(自転車使い)に恐れられている。奴らの角は,何の誇張でもなく,人の皮膚を切り裂き,当たり所によっては意識を刈り取るのだ。
 最後から三番目を走っていた古屋(弟)を,さまよえる黒い弾丸が襲ったらしい。高速カーブの途中で襲われて,彼は大きくバランスを崩し,後続の古屋(兄)を巻き込んでクラッシュしたのだろう。最後尾の信二が無事だったのは僥倖という他ない。
 拓也は唇を噛みしめて前を向いた。そろそろ全力で加速しなければ間に合わなくなる。古屋兄弟の勇姿を脳裏に浮かべ,彼は一瞬目を閉じて黙祷した。
 さらば朋友よ,ヴァルハラで会おう。
 目を開いた拓也は,全力を持って加速する。坂の終わりは近かった。


 目標の時速55キロを達成する直前,太ももを鈍い衝撃が襲った。上り坂に差し掛かったのだ。
 自転車ほど上り坂に敏感な乗り物は他に無い。ほんの僅かな傾斜の存在も見逃さず,あからさまな負荷の増大という形で乗り手にそれを伝える。そして,確実に乗り手の心身を摩耗させる。
 拓也は大きく舌打ちした。後ろに気を取られすぎて,十分な加速を取る事ができなかったのだ。彼をペースメーカーとして頼っている後続も皆,その影響を受けたであろう。太っちょの加藤などにとって,このミスは致命的になるかもしれない。
(みんな,すまない)
 拓也は内心で皆に詫びながら,最大限速度を保つべく全力漕ぎの体勢に入った。
 最大傾斜10度を誇る,人呼んで『心臓破りの坂』。その頂上までは200mほどあった。高低差にして約25メートル。頂上に達した時,時速15キロを保つことは生易しい事ではなかった。
 下り坂と上り坂では,全力を出していても疲労の蓄積がまったく異なる。拓也は歯を食いしばってペダルを漕いだ。速度計の値が,50,45,40……と見る間に減っていく。頂上まで,ようやく半分を過ぎたところ。拓也は焦り,早くも立ち漕ぎの体勢に入ろうとした。
 ガクン!
 ペダルを踏み外し,拓也は思い切り前にのめった。すぐさまペダルを踏み返すも,上り坂でのこのミスは痛かった。見る間に速度は減少していき,すでにメーターは時速25キロを指している。残り100メートル,壁のように立ちはだかる急勾配を,時速10キロの減少だけでやり過ごす。
(できるか!?)
 否であった。今日のために綿密なシミュレートを繰り返してきた拓也には,それが挽回不能な速度である事が,はっきり分かってしまったのだ。
 拓也は絶望に苛まされながら進路を変え,せめて後続の邪魔にならないよう道を開けようとした。
 その時,拓也の背中が強く押された。
「まだだ! 諦めるな拓也!」
 驚いて後ろを振り返る。真っ赤な顔で拓也を押しているのは,一つ後ろを走っているはずの加藤だった。
「止せ,一緒に自爆する気かよ!」
 叫ぶ拓也に向かってニヤリと笑うと,加藤は最後の力を振り絞って拓也を前に押し出した。ここにおいて,太っちょ加藤の重量エネルギーが生きた。加藤が失った速度よりも遙かに,拓也の得た速度が大きかったのだ。
 唖然とする拓也の後ろに,続いて三番手,四番手の仲間が追いつく。彼らもまた,全力で拓也を押し上げては,次々と力尽きて脱落していった。
「お前達……」
「見てこいよ拓也,お前が恋い焦がれた時速85キロの,その先をよ!」
 加藤ほか四名,すでに自転車を降りて,前を走る拓也に精一杯の声援を送っている。拓也は涙を流し,
「うおおおおっ!」
 サドルから立ち上がって全力漕ぎを再開した。
 そうして。
「うおっしゃぁ!」
 拓也は,時速15キロジャストで心臓破りの坂を越えることに成功したのだった。


 再び,下り坂での加速が始まった。上り坂のアクシデントで隊列は大きく乱れてしまい,拓也と信二がほぼ併走している状態だ。そして,そこから少し遅れてもう一人。それが全てだった。その数,僅かに三人。実に三分の二の同志が志し半ばに散っていった訳だ。たかが数分の旅の,なんと過酷なことか。だが,だからこそ,残された彼らは前に進まねばならない。彼らに希望を託して散っていった戦友のためにも。
 上り坂の急勾配に比べて,下り坂は比較的緩やかだった。とはいえ,ヘアピンカーブの手前50メートルの時点で十分な速度を得ておかねばならないため,休む暇はない。
 隊列を整える余裕はもう無いと悟った。拓也と信二は互いに目配せし,互いの了解を取った。ここから先はチームワークなしの真っ向勝負。全力で『走り屋殺し』のヘアピンカーブを曲がった,その者だけが新しい世界への扉を手に入れられるはずだ。二人が疲労の蓄積した太ももに渇を入れてペダルを強く踏みしめ直した,その時だった。
「お兄ちゃん!」
 カーブの影から飛び出したのは,信二の妹だった。
「危ない! そこをどけ妹よ!」
 信二が大声で叫んだ。二人の距離は50メートルほど。数秒で交差する距離だ。
「ダメよお兄ちゃん,ここで止まって!」
「断る!」
「なんで……そんな,そんなにあの人の事が好きなの!? こんな無茶な事をしたって,あの人はお兄ちゃんの事を振り返ったりしないわ。分かっているんでしょう。なのに,なのに……」
 なのに,何故。
 歯を食いしばり,君は行くのか,そんなにしてまで。
「そんなの,決まっているだろう」
 信二は高らかに吠えた。
「愛だよ,愛のためだよ!」
 一瞬もペダルを漕ぐ足を止めず,信二は両手を振り広げて制止せんとする妹の横をすり抜けた。すれ違うその刹那,兄妹の視線が交錯する。互いの目には,大粒の涙が浮かんでいた。
「お兄ちゃん,おにぃぃちゃぁぁぁ〜ん!」
 取りすがる妹の泣き声が,ドップラー効果を起こしながら兄の背を打つ。
「許せ,妹よ」
 信二は振り返らない。
 背後でたとえ,「妹さんどいて!」「おにいちゃぬわぁ〜っ!!」「どですかでん!」という音が聞こえたとしても,もはや彼は振り返る訳にはいかなかった。


 加速に加速を重ねた二人の前に,ついに最終コーナー『走り屋殺し』が姿を現した。正面に立ち塞がるガードレールの向こうには,夜明けを迎えた茜色の空が広がるばかりである。その下は断崖絶壁。これまでに何度も無謀な走り屋の命を奪ってきた,無慈悲な死に神の顎《あぎと》であった。
 残り50メートルを迎えて,依然二人は併走状態だった。互いに譲るつもりはないが,二人同時にこの速度で突入すれば間違いなく,二人を待つのは死神の鎌であろう。この時,二人は絶妙のタイミングで微加速と減速を行った。
 信二が前,直後に拓也。前輪と後輪が触れそうなほどの近距離で,辛うじて二人は縦列状態を形成する。長年培った友情の為せる技であった。その直後,黄色いハンカチが二人の視界を通り過ぎる。二人は同時に,右に向かって大きくハングオンした。
 慣性の法則に従い直進しようとする自転車を,無理矢理右にねじ伏せる。アスファルトと車輪は危険な鋭角を描き,転倒と直進の間に挟まれた髪ほど狭い一本道の上をトレースていった。顔に擦れそうなほどに地面を近くに感じながら,二人はヘアピンカーブを曲がっていく。後輪がじりじりとスライドし,アスファルトに擦れて白煙を吹いた。理想通りのライン取りに二人は内心で喝采をあげた……流星号の前輪がアスファルト上の小石を噛む,その直前までは。
 小石を噛んで,流星号の車体が僅かにぶれた。それはごく僅かなものではあったが,全速ドリフト中の自転車にそれは致命的であった。後輪が見る間に流れ始め,前輪が進むべき方向を見失う。横目でそれを確認した信二は,迷わずブレーキを握った。急減速した信二は拓也の外側に並び,スピン寸前の流星号と激突した。
 反動で流星号はコントロールを取り戻す。その代償として,信二の自転車はコントロールを失いガードレールに激突した。信二の体が空を舞う。
「しゃあねえなあ,今回はお前に譲ってやるよ」
 コーナーを脱出する寸前,拓也は信二の笑い声を聞いたような気がした。
「信二,信二ぃ!」
 拓也は絶叫した。
 ……この日のために信二と計画を練った。二人で夢を達成しようと語った。
 短くも充実した日々が,走馬燈のように拓也の脳裏を走る。

 ――空気抵抗により受ける力は,速度の二乗に比例するらしい……
 ――もっとシンプルに考えよう。球体の体積として捕らえるんだ。すなわち,4πr^3/3。そして脂肪の比重は約0.9。つまり重量は……
 ――公式設定を探せ! どこかに,どこかにあるはずだ!
 ――このグラフに重量を代入するんだ。速度は,速度はどうなる!?
 ――85キロ……時速,85キロだ……
 ――できるのか? 俺たちに?
 ――できるさ,俺たちならば!

 拓也は涙を流しながらも,前を向いた。
 信二の遺志を無駄にしてはならない。俺は,何が何でも達成するんだ。
 涙と雄叫びを吐き出しながら,ついに拓也は時速85キロメートルを超えた。

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 拓也は胸ポケットに左手を差し込み,彼のお守りを取り出した。それは,薄型の携帯端末であった。
 危険な片手運転をしながら,拓也は端末の蓋を開ける。ピロピロリン,という効果音と共に液晶が起動する。ディスプレイの中で,彼の想い人が心配そうに拓也を見つめていた。
(拓也君……貴方,バカよ。本当にバカ)
「そうです。男は誰だって,好きな人のためならバカになるんです」
(ごめんなさい……私が,ここを飛び出して貴方の胸に飛び込む事ができたなら,貴方にこんな危険を冒させなくて済んだのに)
「いいんです,いいんですよ寧々さん。俺は今,最高に生きています!」
 ディスプレイの前の少女は,儚い笑みを浮かべ,
(じゃあ,拓也君……いいよ)
 頬を赤く染め,顔を僅かに背けた。カメラがズームアウトし,少女の上半身が映し出される。蠱惑的なネグリジェの下に,豊満なボディが透けて見える。ありとあらゆる角度から考察した結果,Eカップだと拓也は確信している。
 寧々さんの艶姿を目に焼き付け,拓也は空を仰いだ。眼前には昇り始めたばかりの太陽。直射日光がハレーションを起こし,目の前は白一色だ。もう,道も見えない。坂の終わりも見えない。でもそんなの関係ねぇ。
 ごうごうと鳴っていた風の音が消える。朝焼けに包まれて今,世界には拓也と寧々さんだけが存在している。数秒後,現実世界の彼はガードレールに激突してその身を散らせる事になるのだろうが,その前に永遠の世界を垣間見ることができるのなら,悔いはなかった。
 両手をハンドルから離す。そのまま,腕を天高く掲げる。ツール・ド・フランスを七連覇した鉄人,ランス・アームストロングの様に天を仰ぐ。右と左の掌が開き,お椀型にすぼまる。微妙にわきわきする。拓也の掌に,未知にして至福の感触が訪れる。

 これだ! これだったのだ! I've got it!

 次の瞬間,拓也は魂の底からの快哉を上げながら八月の青空の下を舞った。
 そして,そのまま彼は誇り高く宣言したのである。

「触れたぞ,俺は寧々さんのおっぱいに触れたぞぉ!」

 ……永遠の世界に旅立った彼の,その後を語る者はいない。




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